Wie aus der Ferne 〜Guest Book〜

2006/02/14から2019/02/06のゲストブック記事です。

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No.718 1982 年の演奏家のチラシ 投稿者:とも 投稿日:2010/10/02(Sat) 13:47

ボーッと e-Bay を見ていたら、以下を見つけました。

http://cgi.ebay.com/Locandina-Teatro-alla-Scala-CHAMBER-ORCHESTRA-1982-/290363727231?pt=Collezionismo_Cartaceo&hash=item439b06dd7f

1982 年の演奏会のチラシのようですが、モーツァルトのピアノ協奏曲 2 曲(これは弾き振りでしょうね)の後にハイドンの最後の交響曲「ロンドン」が告知されています。

DIRETTORE PIANISTA とありますが、交響曲もポリーニの指揮だったのでしょうか?
それとも指揮者無しでの演奏だったのでしょうか・・・。



No.717 モーストリー11月号 投稿者:すみこ   投稿日:2010/09/22(Wed) 00:54

MOSTLY CLASSIC(家のマークにUrl.入れます)の11月号に世界文化賞受賞を記念して、特別企画「マウリツィオ・ポリーニ:ロング・インタビュー」が掲載されています(さすがサンケイ・グループ、早いですね)。Webで最初の2ページは読めますが、早速本屋さんに走らなければ!


No.716 異なる解釈 投稿者:博多の人 投稿日:2010/09/17(Fri) 07:40

私の解釈は個人的で限定的なものに過ぎませんので、クロチルド様が示された異なる解釈を知って、私も勉強になりました。有り難うございました。


No.714 相反するように見えるものの結合 投稿者:博多の人 投稿日:2010/09/16(Thu) 07:54

クロチルド様が引用されている「完璧」という視点に、驚きました。そのような見方があるのですね。私は、ただ、次のように想像しただけです。相反するように見えるもの同士を結合させることにより緊張感が生まれるのではないのだろうか? それが、ポリーニの演奏に凛とした雰囲気を与えている要因の一つではないのだろうか? ポリーニの来日まで、あと5週間ほどですね。演奏会に行ける方々が羨ましいです。ポリーニの世界文化賞受賞、おめでとうございます。京都賞が先かな、と思っていたのですが。


No.712 おめでとうございます、マエストロ! 投稿者:すみこ   投稿日:2010/09/15(Wed) 00:40

ある方から、とても嬉しいニュースをお知らせいただきました。ありがとうございました!!!
マエストロ・ポリーニが2010年の第22回高松宮殿下記念世界文化賞「音楽部門」を受賞とのことです。
TVのニュースでも報道されたようなので、既にご存知の方もいらっしゃるでしょう。
詳細はこの賞のホームページ(家のマークにもUrl.を入れます)

http://www.praemiumimperiale.org/jp/laureates/pollini_summary.html

KAJIMOTOサイトの「ニュース」のページをご覧ください(動画が見られます)。

http://www.kajimotomusic.com/news/news/



No.711 Re:シエナでのリサイタル  投稿者:すみこ  投稿日:2010/08/30(Mon) 00:38

クロチルド様、シエナのリサイタルのご報告をありがとうございました。Teatro Rinnovatiは中世の面影の残る街の市庁舎内にあるのですね。ルネサンス文化の花開いた街、きっと古い歴史のある美しいホールなのでしょう。マエストロは現代の最新の建築によるホール、その音響にとても興味をお持ちのようで、また大ホールを満たす壮大な響きの音楽を聴かせてくれますが、この街の由緒ある、宝石をちりばめた様な豪奢な、こじんまりとしたホールでのリサイタルも、いかにもマエストロに相応しいですね、「絵になる」という感じで・・・。街やホール、奥様やアッカルドさん、聴衆の反応の絶妙さなど、目に浮かべ、思いを巡らしながら読ませていただきました。

皆様にひとつお詫びをしなければなりません。日記帳に、アムステルダムの演奏会について、「DGの“On Tour”からは何故か消えてしまいましたが、コンセルトヘボウとボザールのサイトにはちゃんとスケジュールに載っています、ご安心を。」と記しましたが、その後この一連の演奏会がキャンセルになったことが判りました。指揮者のヤンソンス氏の体調不良によるハイティンク氏への交代、ポリーニも医療上の理由(?)からティル・フェルナー氏に交代と言うことです。不確かなことを書いて、すみませんでしたm(_ _)m



No.710 相反するようにみえるものの結合? 投稿者:博多の人 投稿日:2010/08/28(Sat) 10:45

クロチルド様によるコンサート評を読ませていただき、ポリーニの演奏には、相反するようにみえるものの結合(?)があるのだろうか、と不思議な感覚にとらわれました。「冷たく・情熱的」、「硬く・甘く」、「重く・モダンで」、「暗く・美しく」。相反するもの同士が結合すると、お互いに緊張するでしょうね。それから、私が投稿しましたNo.707の記事は、私が削除しました。


No.708 夏の音楽 投稿者:マーリン 投稿日:2010/08/17(Tue) 21:32

酷暑が続きますが、みなさまご自愛されますよう。私の夏の音楽のフェイバリットですが、昼間はドビッシーのプレリュード、夕方はバルトークのピアノ協奏曲1番、夜はブーレーズかベルクのソナタ。寝る前はショパンのノクターンか舟歌。ピアノはすべてマウリツィオ・ポリーニの演奏です。いかが?


No.706 SHM-CDのリリース 投稿者:すみこ   投稿日:2010/08/10(Tue) 12:46

この秋のポリーニ来日記念盤として、10月13日にSHM-CDが20タイトル発売されます。(家のマークにユニヴァーサルのUrl.入れます)
ドイツ・グラモフォンへの最初の録音「ペトルーシュカ」から最新の「平均律」まで、マエストロの芸術を網羅した感があります。既に持っている、聴いているものばかりと思いますが(多くの方にとって)、SHM-CDの素晴らしい音質(http://www.universal-music.co.jp/classics/release/super_high_material_cd/index.html)で鑑賞しなおすのも良いでしょうね。
欧米で発売されたショパン生誕200年記念のCDは、日本では発売されないのでしょうか。気になるところです・・・。

eternity様、“マエストロはバッハに限らず、いつも「何も足さない、何も引かない」道・・・を歩んでいらっしゃる”とのご指摘、本当にそうですね。作品そのものの素晴らしさが余すところなく表わされ、深い感銘を与える演奏。真にベートーヴェンを聴いた、ショパンを聴いた・・・という感動が残る演奏。それがまさしく「ポリーニの演奏」なのですね。近年、ますます純粋さを深めた感のある「何も足さない、何も引かない」演奏に、マエストロの人間性(などと軽々に言えないことですが)がおのずと滲み出て、深い味わいのある、心に響く音楽となる・・・それ自体が奇跡のようですね、或いは“恩寵”というべきでしょうか。



No.705 残暑お見舞い申し上げます 投稿者:eternity 投稿日:2010/08/10(Tue) 00:08

博多の人様がお書きになられた『禁止されていないことは全て起こる(あるいは可能性がある)』・・について、ずっと考えていました。これは、この世で起こる全ての現象について、のことですね?
そして、この『禁止』を行う、または行わない存在とは神様(のような方)と考えてよろしいのでしょうか?9年前、ワールドトレードセンタービルの2棟目に2機目の航空機が突入する瞬間をテレビでリアルタイムでみました。
その時に感じたことは、神様(のような存在)はこの行為を止めなかった、ということでした。あまりに大きな犠牲でしたが、無意味にあのようなことが起こったのでもなく、不必要に与えられた試練でもないのだろうと感じました。
人間の未来がかかった大きな最終試験なのかもしれないと感じました。
私はクリスチャンではありませんがマタイ受難曲を聴くたび、申し訳なさでいっぱいになります。
言葉では謝りきれないことは解っていても、やはり「ごめんなさい」と思わずにはいられません。もう1度、今度は人間自身の犠牲のもとに考え方や生き方を見直しなさいと言われているのでは・・と痛切に感じておりますが、そう簡単には行かないのでしょうね・・きっと。博多の人様、いつもありがとうございます!!


マーリン様、ありがとうございます!!
サンソン・フランソワのショパン・・私はA面が「24の前奏曲」B面が「即興曲集」のレコードを聴いて、いい感じ(*^^*)と思い、次にA面「バラード全曲」B面「スケルツォ全曲」のレコードを購入し、いざ聴いてみたところ、スケルツォのテンポが私にはひどく遅く感じられ、なんと言っていいのかわかりませんが、想定外の想定外・・の演奏に倒れそうになりました。
これって一体・・(・・;)・・と思って以来、全く聴かなくなってしまいましたが、手元にレコードがありますので、また聴いてみようと思います。
スケルツォはマーリン様の仰る「音がだらだらと鳴って・・」という感じだったと思います。

私は、マエストロはバッハに限らず、いつも「何も足さない、何も引かない」道・・だからこそ、この上なく困難な道・・を歩んでいらっしゃるのだと感じております。「マエストロはそういうことを考える機会を与えてくれたのだと感謝しています。」・・本当にそうですね。マエストロが差し出してくださる全てのことに感謝でいっぱいです。

すみこ様
温かいお言葉の数々・・心より感謝いたします。
何度も読ませていただいているうちに、マエストロのドビュッシーに関しての道筋が良く理解できるようになってきた気がいたします。
そしてバッハ平均律のことも本当にありがとうございます。
「バッハは海」(by Beethoven)・・そうでしたね!!私の場合、情けないことに(プレリュードも良い状態とは言えませんが)フーガにいたっては試験で弾いた曲ですら弾けなくなっている有様ですので、まずは初めて楽譜を読むつもりで頑張らなければなりません。
もし、マエストロがバッハ平均律のCDを出してくださらなければ、もう1度バッハに真剣に取り組む機会は無かったと思います。
焦らず、諦めず、私なりに真摯に臨みたいと思っています。
本当に本当にありがとうございます!!



No.704 演奏家の苦悩 投稿者:博多の人 投稿日:2010/08/09(Mon) 07:47

管理人様が書かれていましたポリーニのインタビュー、「他の偉大な演奏家の録音を聴いてその曲を知っているが、それは知識の部分です。演奏家が何かを表現するには、自分で自分の道を見い出さなければなりません。」を読み、演奏家の大変な苦悩を想像しました。欧米は永年にわたる伝統があって、伝統を継承しながらも、演奏家自身の個性をどのようにして出すのか、と苦悩の日々を送っているのでしょうね。欧米の演奏家の中には、信じられないくらい大胆な解釈を施す人達がいますが、伝統の縛りからの脱却なのか、それとも、伝統の過剰なのか(この表現はおかしいですね)、よく分かりませんが。


No.703 暑中お見舞い申し上げます。 投稿者:すみこ  投稿日:2010/07/30(Fri) 14:42

昨日は各地で雨が降り、暑さは一段落、でも大雨の被害もあったようです。今日も変わりやすい天気、でもまた暑さが戻り真夏日〜猛暑となるのでしょう。皆様、熱中症と大雨に気をつけて、楽しい夏をお過ごしください。
この間の皆様のご投稿を楽しく拝読し、又いろいろ思いを巡らしたりしておりました。このゲストブックがポリーニは勿論、広く音楽に関して意見や感想を交す場となっていることを、嬉しく、ありがたく思います。

eternity様の紹介して下さった青柳さんのお話し、面白いですね。ピアニストならではの視点、フランス音楽への造詣の深さと、ウィットに満ちた語り口。「難をいえば、いい人すぎるというか(笑)。」にはニヤリ(^^)、そしてナルホド! とかくフランス的“軽妙・洒脱”や“退嬰”、作曲者の仕掛けた“毒”や、秘めた“悪”の要素に欠けると評されるポリーニのドビュッシー・・・詩情や描写力に欠けることは決してないけれど、真面目で、やや立派なドビュッシーになる・・・「いい人すぎる」んですね、マエストロは。でもポリーニのアプローチが後期の「練習曲」から、ということを思うと、それも肯けます。彼が見ているのは現代の音楽へ、現代の彼自身へと続く音楽の歩みであり、ドビュッシーの切り開いてきた道程なのではないでしょうか。その過程に於いては「多重人格」な作曲家もきっと“真面目”そのもの、そして生み出されたものは完成度の高い“立派”な作品。洒脱や諧謔や退廃やコケットリーや虚無性や・・・それぞれ魅惑的な衣を纏っている曲達だけれど、ポリーニはまずその本質を捉えて表現することに熱意を持っているのではないでしょうか・・・。

eternity様がポリーニの「平均律」に“すんなり溶け込むことができない”と感じられるのは、ピアノを弾かれる方として、当然とは言わないまでも、あり得ることではないでしょうか。そこにグールドが介在しているとしても、まずeternity様ご自身が、楽譜を通して曲と向き合っていられるからこそだと思います。私などはただ「聴く人」で(ことに「平均律」は他のピアニストで聴く経験が殆ど無かったもので)、マエストロの演奏を全面的に受け容れ、すぐさまその美しさに浸ってしまいました。マーリン様が引用されたブックレットの「何も足さない、何も引かない」のフレーズに全く違和感が無い(お酒のコマーシャルを思い出して笑ってしまいましたが^^;)ほど、ポリーニの演奏の自然さ、純度の高さに魅了され、作品そのものの素晴らしさに驚嘆させられたのでした。でも、楽譜とピアノを通してご自分で曲と向き合う方とは、理解の深さに自ずと違いがあるだろうと思っています。
以前のポリーニのインタビューに(他の偉大な演奏家の録音を聴いてその曲を知っているが)「それは知識の部分です」演奏家が何かを表現するには「自分で自分の道を見い出さなければなりません」と(いうように)言っていました。
「バッハは海」(by Beethoven)ですね。その可能性の許容範囲、自由さは、無限と言ってよいのではないでしょうか。それだけに、ご自分の道を見い出すのは大変なことかも知れませんが、真摯に臨めばそれだけ理解が深まり、曲の偉大さも、ポリーニの演奏の素晴らしさも、より深く味合うことができるでしょう。この秋まで、焦らずに、諦めずに、頑張ってくださいね!



No.702 何も足さない、何も引かないバッハ 投稿者:マーリン 投稿日:2010/07/27(Tue) 23:21

みなさまの素敵なやりとりに心動かされて読ませていただいております。eternityさまのお気持ちの吐露、よくわかります。20年以上前ですが、クラシック音楽ファンの仲間と喫茶店でサンソン・フランソワのショパンを聞いて「音がだらだらと鳴っていてよくわからない、音は玉のように独立しながら繋がっているのがいいよね。ポリーニのポロネーズはそうなっているよね」と生意気言ってました。実演とレコードの違いの問題は難しいのでまたの機会にして、今日はレコードの比較のお話ですが。
 バッハはショパンと違っていろんな演奏、解釈が許されているとすると、やっぱり私にとってはポリーニのバッハということになるのかなと考えています。私が期待したのはグールドのようなバッハ?、いや違うだろう、じゃ、どんなバッハ?ライナーノートに「何も足さない、何も引かない」ようなバッハとありましたが、言い当てているような気がします。気をてらうことなく、音楽のみに求心的なポリーニならではの演奏と思っています。マエストロはそういうことを考える機会を与えてくれたのだと感謝しています。



No.701 不思議なことは・・・ 投稿者:博多の人 投稿日:2010/07/21(Wed) 08:18

シャリーノのピアノソナタ第2番の事や青柳いづみこさんの本の事はまったく知りませんでした。ポリーニによるショパン・ポロネーズ集のレコードを最初に聞いたとき、肩に力が入り過ぎているのかな(間違った表現ですが)、と思いました。でも、ポロネーズ第1番の中間部のロマンチックなメロディーは絶品だし、幻想ポロネーズも素晴らしかった。Eternity様が書かれていることを読ませていただき、ふと思いましたことは、種々様々な演奏があるということは、それらの存在がすべて許されている(逆に言えば禁止されていない)、ということですね。本で読んだのかそれとも誰かから聞いたのかを思い出せませんが、禁止されていないことは全て起こる(あるいは可能性がある)、そうです。一人一人が感じることができるのは、それらの中のごくごく一部なのでしょうね。だから、立ち止まって考え込んだり、好みが分かれたりするのでしょうね。


No.700 博多の人様、本当にありがとうございます 投稿者:eternity 投稿日:2010/07/20(Tue) 21:38

博多の人様。

優しいお心遣いに心から感謝いたします。

バッハ平均律以前にも、このようなことはあったのです。例えばショパンのポロネーズ集です。発売直後にレコードを手にしたものの、私には少し冷静すぎる演奏に感じられて、ほとんど聴くことがないまま時が経ち・・でした。
ところが、1981年にライブで英雄ポロネーズを聴き、レコードとはまるで違う熱い血のほとばしるような演奏に魅了されました。というより、30代最後の年の、若きマエストロの有無を言わせない圧倒的な演奏に、ぐいっと魂を掴まれてしまったのです。

以前はマエストロの演奏会を聴くための予習(?)をしないまま、ということもありました。
また、予習が不可能な場合もありました・・例えばシャリーノのピアノソナタ2番を聴いた時などは、楽譜を手に入れることもできませんでしたから、全くの白紙の状態で聴きました。
白紙という状態も、かえって潔いもので、「作品というものは、常に世界全体を反映するものであり、そのことを抜きに私は作品というものを考えたことはありません」・・というマエストロのお言葉通りの、現在の地球を象徴しているかのようなシャリーノの作品を、マエストロの演奏から充分に受け取ることができたように思います。

今回のバッハ平均律には、私のアンテナの不調で、未だ感知できていないだけの“隠れた何か”があるのかもしれない・・と思うのです。それが私の不安です。

私はとって唯一無二の存在であるMaurizio Polliniという人。彼に巡り逢えない人生など今では想像もできません。
ですからマエストロの平均律を、可能な限り間違いのない形で受け取りたいのです。

無関係そうで、無関係ではないかもしれない青柳いづみこ氏の「ピアニストたちのアプローチを語る」という記事・・博多の人様は既にご存知かもしれませんが、コピーいたしました。
『テーマ曲 ドビュッシー:前奏曲集第1巻
まずドビュッシーのピアノ曲での《前奏曲集第1巻》の位置を簡単にお話しましょう。1909年12月〜10年2月にかけて完成された作品ですが、一部は管弦楽のための《映像》の「イベリア」作曲帳(1907〜08)でスケッチされています。作曲家としてのドビュッシーの大きな目的は、オペラを書くことだったんですね。初期のピアノ曲は、生活費稼ぎのための「わかりやすい曲」でした。02年に《ペレアスとメリザンド》が初演されると、03年の《版画》でようやく独自のピアノ書法が提示され、04年の《喜びの島》、05年の《映像》第1集、07年の第2集と、中期の傑作が続きます。《前奏曲集第1巻》でオーソドックスな書法の時代が終わり、13年に出版された《前奏曲集第2巻》では20世紀音楽に通じる前衛的な書法になり15年の《12の練習曲》など後期スタイルに向かうわけです。

ドビュッシーにフィットする精神は、明るくて暗くて、温かくて冷たくて、健康で不健康で、真面目でひょうきんで、いい人で悪い人で、即興的で構築的、美食趣味で禁欲的で、というパラドックスに満ちたものです。何といっても、彼は多重人格でしたから。

ミシェル・ベロフ
まずベロフは透明度抜群です。ドビュッシーの書法は、いくつもの層に分かれていて、とてもオーケストラ的です。それぞれの層に応じた表現が必要になると思いますが、ベロフは楽譜をすごく立体的に読む人ですね。たとえばポール・クロスリーの場合、縦の線の時間をずらして処理するようなところがありますが、ベロフは同時に弾いていても分離して聞こえる。ペダルが独特で、響きの中で各層が透けて見える感じ。知的なアプローチですから、後期のスタイルになるほど合うと思います。それからもうひとつ、ベロフの音楽は瞑想的で、とても“息”が長い。精緻な演奏なのに、つかみが大きい。そして、暗い。これも特徴でしょう(笑)。洒脱さや即興性はないですが、とても芸術的なCDだと思いますね。

マウリツィオ・ポリーニ
ドビュッシーの音楽は、調性感をわざとぼかしたり、いわゆる機能和声音楽から遠ざかろうとしています。ところが、ポリーニが弾くと、和声がちゃんと「機能」しているように聴こえるのが面白い。メロディ・メイキングも古典的で、旋律がどこからきてどこへ行くのか、どこでドビュッシーらしく尻きれとんぼになるか、和声の進行もどこで中断されるのかがはっきりわかる。曲に内在するエネルギーがどこで発生して、どのようにクライマックスに至るかも明快。ポリーニが楽譜を読むとこうなるのだろうと思いますね。
いかにもポリーニらしいのは、全12曲で起承転結があること。曲間まできちんと計算しているのがわかります。これはすごい構成力ですね。難をいえば、いい人すぎるというか(笑)。ボードレール『悪の華』の詩にもとづく〈音と香り……〉とか、退廃的な魅力はあんまり。スペインの“毒”を盛り込んだ〈とだえたセレナーデ〉も、ちょっと立派すぎる?でも、〈西風のみたもの〉など本当にダイナミックで、音楽に重量感、奥行きがあります。音はベルカントでよく歌うし、録音も含めて完成度の高いディスクです。

サンソン・フランソワ  ポリーニとは対照的で即興性に満ちた演奏です。おそらくテイクワンでしょう。ウソばっかり弾いてる(笑)。ラヴェルがおハコと言われているようですが、ラヴェルはもっと精密に弾いて欲しいんです。フランソワのドビュッシーは、本当に“天然”で、お師匠さんのコルトーが演出過剰に聞こえるくらい。〈雪の上の足跡〉など、つかまるものが何にもなくなっちゃった人のいいしれない虚無感がよく出ています。最後の諦観のメロディーは、音も歌いかたも本当に美しい。思わずカウンセリングしたくなっちゃいますけど。
ドビュッシーの音楽は、“言葉では表現できない何か”、私は“想念”と呼んでいますが、それがさまざまに変化したり爆発したり、綾なすさまに音という形を与えたようなもの。フランソワは完全にシンクロして入り込んでいます。〈アナカプリの丘〉のナポリ民謡とか、ラヴェルではちょっと気になる独特の酔っぱらったようなリズムが、ドビュッシーでは生きている。真・善・美ではなく、デカダンの音楽。いいですねぇ。

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ  ミケランジェリのドビュッシーで私がすばらしいと思うのは、《映像1・2集》です。マニエリストの面目躍如で、耽美的なところがたまらない。《前奏曲集第1巻》は世評の高いディスクですが、私にはあまりフィットしません。音響的な色彩感は抜群ですが、音楽的にはもう少しいろんな色が欲しい。〈パック〉は重すぎて空を飛べそうにないし、〈ミンストレル〉はヴォードヴィルのショー音楽のはずなのに ニコリともしないし……。ドビュッシーの音楽は、平行移動する和音塊、響きの帯がそのまま横に動いていくようなところがあるのですが、ミケランジェリはあくまでも旋律対和声というアプローチで、ときどき上のメロディをずらして歌うのも、少し違うなと思います。ドビュッシーは、「私の作品を弾くには、名ピアニストの小指はいらない」と言っていたのですが。

アルフレッド・コルトー 親しみやすいドビュッシー。でも、個人的には、もう少し抑制したアプローチの方が好きです。「ものごとの半分だけ言って、あとは聴き手の想像力に接ぎ木させる」というのが、ドビュッシーのモットーでした。それはまた、言葉から意味をそぎ落としてどんどん抽象的にしていったマラルメの精神でもあったんですね。でも、コルトーはとても気持ちが開いていて、全部歌い上げてしまう。〈雪の上の足跡〉など、人前で「ああ、悲しい!」と胸をたたく感じ? 〈パックの踊り〉は、ステキですね。軽やかなタッチ、コケットリーが、いたずら好きだが基本的に愛されているパックにぴったり。〈ミンストレル〉も、無声映画の伴奏音楽のようで、古きよき時代の香りが漂っています。

クラウディオ・アラウ
専門家が評価するCDでしょう。たっぷり水をふくんだ和音、見事に鳴りきったトレモロはさすが!楽器が本当の意味でうまく操れる人ですね。〈音と香り……〉など、暗闇にほのかに光る音で、とてもいい雰囲気。何も特別なことはやらないが、音楽のめざすところに沿って、けだるさ、密やかさがよく表現されています。縦の線と横の線、起承転結、ダイナミクス。すべてにバランスがいい。無駄なルバートはないけれど、ごく自然に揺れている。各層の色分けもきれいで、細かい音もそろっている。即興性もあるけれど行きすぎないし、我を忘れそうになっても戻ってくるし、いろんな点で感心してしまいます。

ジャック・フェヴリエ  ラヴェルの同級生の息子で、《左手のための協奏曲》を初演した人。意外に良くて驚きました。同じザッハリヒなアプローチなら、ギーゼキングよりフェヴリエの方が好ましいと思います。音の粒立ちがよく、そっけなくて、ある種の無表情な魅力があります。ファンタジー、ポエジーとは対極にあるのかもしれないけれど、フランス人は、自分たちの文化のいちばんの特徴はクラルテ――明晰さにあると主張しています。その意味では、いかにもフランスらしい、主知的でテクスチュアがよく見える演奏でした。(談)』
以上ですが、“ポリーニが楽譜を読むとこうなるのだろうと思いますね。いかにもポリーニらしいのは、全12曲で起承転結があること。曲間まできちんと計算しているのがわかります。これはすごい構成力ですね。難をいえば、いい人すぎるというか(笑) ”
マエストロが“いい人すぎる”という箇所が微笑ましくて、でも確かにその通りとも思うのです。
この夏、そして初秋をバッハ平均律と向き合って過ごし、マエストロが差し出してくださっているものを知りたいと思います。
非常識な長さになってしまい本当に本当に申し訳ありません。



No.699 ポリーニのバッハ 投稿者:博多の人 投稿日:2010/07/20(Tue) 08:02

Eternity様が感じておられる、ポリーニのバッハとの距離感。感じ方は、一人一人違うわけですから、共通の部分もありますが、お気になさらなくてもよろしいのでは、と思います。私は、ポリーニのベートーベン・ソナタ30・31番を最初にレコードで聞いた時、しかもこの2曲を聞くのが私にとっても初めての経験だった時、何かしら違和感を覚えました。でも、これがポリーニの解釈なのだと思って、ポリーニはポリーニ、私は私、と割り切りました。約10年前に、ベートーベン最後の3つのソナタをテレビで見た時(ポリーニの東京公演)は感動しました。とくに、最後のソナタに。私は、ポリーニが一番好きなピアニストですが(この点では絶対的)、時々は、他のピアニストの演奏と比べ、相対化するようにしています。


No.698 マエストロのバッハ、グールドのバッハ 投稿者:eternity 投稿日:2010/07/20(Tue) 00:02

私はマエストロのバッハ平均律第1巻になかなかすんなりと溶け込むことができませんでした。
皆様がマエストロの平均律の美しさを味わい、人生の糧とされていらっしゃることに焦りすら感じました。

全く別次元の話であることは解ってはいても、学生時代の自分自身の平均律へのコンプレックスまで加わって、高い壁を目の前に立ちすくんでしまったような感じでした。今も未だ完全に壁を乗り越えることができません。

マエストロの魂のように美しい音色は、バッハ平均律の数あるCDの中でも比類のないものだということは感じているのですが、そしてマエストロの情熱も。
あまりに長い間、マエストロのバッハを聴くことができずにいたことも、立ちすくむ一因なのかもしれません。

バッハの演奏にはアーテュキレーション、デュナーミク、装飾音の入れ方等々の解釈、可能性においての許容範囲が広く、その自由さゆえに迷いが生まれます。

そして、この事態にはグールドが大きく関わっているようにも思われます。
リヒテルがグールドの演奏を聴いて、ロストロポーヴィチに「僕もグールドのようにバッハを弾くことはできる。でも、そのためには物凄く練習しなければならないんだ。」と告白したそうですが、私にとってもグールドのバッハは特別なのかもしれません。

グールドは自分が演奏家になったのは「バッハへの愛のため」だと言っています。カナダ生まれの天秤座のグールド。
「フーガの技法」のレコーディング中には「ここはバッハが対位法を間違えている。もしバッハが生きていたら書き直しただろう。」という発見までしてしまうグールド。
グールドはオルガニストでもあり、平均律をチェンバロでも演奏しています。

アシュケナージは「グールドがバッハの弾き方を示してくれたことに感謝する」といった発言をしています。そしてグールドはアシュケナージにとって永遠のアイドルであるとも。


マエストロが長い長い歳月をかけて、初めて録音に踏みきってくれた平均律なのに、すんなりとその美しさに溶け込むことができないことに焦り、そしてこの気持ちのままで演奏会を迎えるわけにはいかないという想いに駆られます。
ライブで聴くことでマエストロのバッハに溶け込むことができますように、と願いながら、今は学生時代のコンプレックスから抜け出すために再度平均律に向かっています。

無数のことをマエストロに教えていただき、迷うことの無い人生を与えてくださるマエストロ。・・道しるべは全てマエストロへの方向を指し示しているのですから。

音楽に人生を捧げ、あらゆる手段でクラシック(現代音楽を含む)の普及に献身されるマエストロの音楽への愛の大きさ。
それなのに私は・・・。

でも諦めません。少しずつでもマエストロがこの時期にバッハ平均律をレコーディングされた意味、意図に辿り着けることを信じながらバッハと向き合っていきます。・・できることならライブを聴く前に辿り着けると良いのですが。



No.697 Re:「さすらい人」ブレンデル 投稿者:eternity 投稿日:2010/07/17(Sat) 06:01

翻訳者は2002年のポリーニ・プロジェクトでの《ポリーニとファンの集い》で、英語での通訳をなさっておられた岡本和子さんでしたね。

自然で解りやすい素晴らしい通訳でしたが、ウィーン育ちの岡本さんにとっては日本語と独語が“母国語”なのでしょうね。グルダとも長年の親交があり、岡本さんの尽力で、グルダのシューベルトのCDの日本での発売が実現した、ということもあったようです。

そして!この5月には、NHKで放送された「ラ・フォル・ジュルネ」にフランス語の通訳で出演され、びっくり!!
日本語だけで四苦八苦の私には驚異的としか言いようのない岡本和子さんの頭脳です。

「ゲゲゲの鬼太郎カルタ」で、あのブレンデルさんが飛び上がらんばかりに喜んだこと。
そして、ブレンデルの好みのツボにズバリ命中!!の贈り物をなさった岡本さん。・・お二方の視野の広さ、懐の深さは計り知れない感じがします。
本当に素晴らしい!!凄い!!



No.696 ゲゲゲ 投稿者:マーリン 投稿日:2010/07/17(Sat) 01:55

コッぺリアさんの投稿の中にゲゲゲが出てきたので、たまらなくなって書きます。ゲゲゲの女房が大好きでNHKの朝ドラ欠かさず見ています。ポリーニと水木さんが同じとは言いませんが、駆け出しのころ自分の主張が大衆に受け入れられなくて戸惑ったところなんか、似ているかもと思います。クロチルドさんが「新しさ」について博多の方のコメントに呼応された文章、いいと思いました。とうのは音楽の友を本屋さんに見に行ったら、レコード芸術が隣あったので、吉田さんがもしかしてポリーニの平均律について書いておられのかな?と思って手にしました。が大部分はショパンとベートヴェンのお話、でも「新しさ」について述べられております。このブログに投稿されている方々は、すみこさんがそうコントロールされているかも知れませんが、人の意見も尊重し、かつ自分の意見も述べられるというスタイルになっているので、大好きです。ゲゲゲの女房とポリーニの平均律は結びつかないかもしれませんが、私の心の中ではどちらもドキドキです。あっごめんなさい、ゲゲゲが気に入ったのはブレンデルでしたね。


No.694 「さすらい人」ブレンデル 投稿者:コッペリア 投稿日:2010/07/16(Fri) 20:33

この本に、作曲家や他のピアニスト対するブレンデルの見解が書かれています。図書館にありました。この本の翻訳者がブレンデルの好みを知っており、お土産にと「ゲゲゲの鬼太郎カルタ」を渡すと、飛び上がらんばかりに喜んでいたという、エピソードが印象的でした。


No.693 ブレンデルのこと 投稿者:博多の人 投稿日:2010/07/15(Thu) 12:34

ブレンデルが、下記のことをどこかで述べていたような気がします、はっきりとは思い出せませんが。「従来の音楽に満足できない人が作曲家になる」、と。ブレンデルは、若い頃はいろいろな作品を弾き、後にドイツ・オーストリア系音楽の巨匠になったのですね。とくに、シューベルトやブラームスは本当に素晴らしいと思います。ブレンデルは、学究肌の人なのでは、と想像しますが、どうでしょうか。ところで、ポリーニの録音情報や新譜情報がありましたら、教えて下さい。


No.691 ラフマニノフとプロコフィエフ 投稿者:博多の人 投稿日:2010/07/14(Wed) 17:26

ポリーニによる、ラフマニノフ第2番とプロコフィエフ第3番のコンチェルトのカップリングCDが出ないかな、とひそかに期待していたのですが、実現しそうにありませんね。そういえば、ラフマニノフよりプロコフィエフの方を好む、とポリーニが答えていた記事を読んだことがあるのですが、いつ頃どの雑誌でだったか思い出せません。ティーンエイジャー、良い響きの言葉ですね。胸がキュンとなる感覚をたくさん経験できる時代ですよね。私は、いつまでもティーンエイジャーでいたい、と思います。お父上が取り上げられないのであれば、ご子息のダニエーレさんがいつか弾いて下さることを期待しています。


No.690 ポリーニがラフマニノフを演奏なさらないのは・・ 投稿者:eternity 投稿日:2010/07/14(Wed) 09:26

クロチルド様が訳してくださいました、ラフマニノフについてのブレンデルのお言葉・・「私に取っては、彼の音楽はティーンエイジャー向けなのです。」・・を拝見し、ふと、ポリーニのご子息ダニエーレ・ポリーニの若き日のインタビューを思い出しました。(今年の11月で32歳ですから、もちろん今もお若いのですが・・)

どのような質問へのお答えだったのかを良く憶えてはいないのですが、若きダニエーレ君は「我が家ではラフマニノフは人気がありません。僕自身は好きなんですけれどね!」・・と答えていらっしゃいました。

ブレンデルにとってのラフマニノフのように、ポリーニにとってもラフマニノフを演奏なさらない理由がおありなのでしょうね。

博多の人様、どうぞがっかりなさらないでくださいね。
ラフマニノフ自身の演奏による、2番と3番の協奏曲を聴いたことがありますが、やはり作曲者自身による演奏には込められた想いの深さ、1音1音が紛れもない真実である(・・と私には感じられました)ということに胸を打たれました。



No.688 ブレンデルの厳しい眼 投稿者:博多の人 投稿日:2010/07/13(Tue) 12:38

ブレンデルの見方は厳しいですね。でも、私は、ラフマニノフの2番のコンチェルトは大好きで、とくに第3楽章のロマンチックなピアノ独奏部は絶品だと思います。ポリーニによる平均律の演奏が新しいバッハ像かもしれない、というのは私の個人的な感想に過ぎません。他のピアニスト達の演奏をほとんど知らないので、比較した上での意見ではありません。それでも、ビートルズの音楽のように、何度聞いても、新鮮さを感じます。CD1枚の50分間があっと言う間に過ぎて、えーっ、もう終わったの。これが、毎回のことです。音楽の専門家の方々がどのように仰るかは分かりませんが、好みは人それぞれですので、私は自分の気持ちに素直でいたいと思っています。


No.686 おおらかな時代 投稿者:博多の人 投稿日:2010/07/11(Sun) 09:12

Eternity様、有り難うございました。私は、本屋で表紙を見ただけだったので、とても面白い解説記事が掲載されていることは、知りませんでした。ポリーニが、チャイコフスキーの1番やラフマニノフの2番を弾いてくれないかな、とずっと期待をもって待ち続けています。膨大な数のピアノ作品の中から、何を弾き、何を取り上げないか、ポリーニは、ご自身の考えに従って、取捨選択されているのでしょうね。もちろん、レコード会社の意向もあるのでしょうが。バッハの平均律第2巻も是非聞きたいですね。ポリーニによる第1巻は、何度聞いても飽きません。友達にそのことを話したら、重苦しくないからでは、と言われました。その通りですね。新しいバッハ像なのでしょうね、きっと。ゴールドベルクも聞きたいですね、是非とも。マーリン様がおっしゃる、アバドとのショパンの1番の協演は、興味深いですね。2番も是非。


No.685 ステレオ芸術の空想(妄想)記事、発掘! 投稿者:eternity 投稿日:2010/07/10(Sat) 23:32

博多の人様が仰った記事を、私のポリーニ・コーナーの古い時代の中から発掘しました。
昔は面白い企画の記事(的外れな内容も随分ありますが)が多かったように思います。

「ステレオ芸術」1976年8月号の表紙がポリーニとストコフスキーによる、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のジャケットになっています。そして162ページに表紙についての「お話」が・・・。
面白いのでコピーしました。1977年9月号の表紙にも私達の愛するポリーニが登場!!
シューベルトの「さすらい人」のジャケットの写真が使われていまして、この号の空想レコーディングは「バッハ平均律第2巻」です。こちらのカバー・ストーリーも面白いのですが、あまりに長くなってしまいますので、また、いつか・・・。
「カバー・ストーリー───今月の表紙について

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品23(1889年版)
マウリツィオ・ポリーニ=ピアノ
レオポルド・ストコフスキー=指揮
ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団
録音日時:1974年10月頃
録音エンジニア:SG編集部特派ミキサーQ氏担当

《その年、10月のローマは、毎日のようにからりと晴れて、明るく、爽やかだった。じつにすばらしい日々だった。聞くところによると、いつも、この季節はこうなのだという。
一度でもローマのオットーブレ(Ottobre)をすごしたことのある人は、きっと、青かったあの空をなつかしく想い出すにちがいない。
1週間の休暇を、こともあろうに曇り日つづきのロンドンでおくったことが、私にはくやまれてならなかった。しかも、ローマではかなりスケジュールのたてこんだ仕事がいくつかあったのだから──。
なにしろ、私の知っているローマなんてオードリー・ヘップバーンにメロメロになった記憶もなつかしい映画《ローマの休日》とレスピーギのいくつかの交響詩、それに、あのやくざなプッチーニのオペラぐらいのものだ。
終着駅(テルミニ)にほどちかいピアッツァ・レプブリカ(共和国広場)にのぞむグランド・ホテルに部屋をとっていたのでRAI(イタリア放送協会)のオーディトリアムでの録音セッションには、ホテルからだと松並木や噴水で名高いヴィラ・ボルゲーゼの公園をつっきって、ローマ市の西北端のテヴェレ河を渡った向こうにあるフォロ・イタリーコのRAIオーディトリアムまで、車をとばしたが、タクシー代はずいぶん高額だった。
チャイコフスキーの《ピアノ協奏曲》を、ポリーニは専属契約のあるDGGに録音する予定はなかったし、このSGレコードの企画もDGGの営業方針に全くさしさわりがないことが理解されて、実現したのではあるまいか。と私は想像するのだが、裏話をそっとおしらせすると、最初、指揮をリチャード・ボニングにしては、という推薦者があった。だが、同氏は、チャイコフスキーのオリジナル・マニュスクリプト、つまり、1875年10月25日にハンス・フォン・ビューローがボストンでおこなった世界初演の際の原典版でのレコーディングを強く主張、だが、ポリーニは原典版のピアノ・パートは演奏不可能(というよりは、入手不可能といったほうが早いのだが)だと難色をしめし、ボニング計画は中絶した。その点、昔から改訂版のすきなストコフスキーが老骨に鞭打ってポリーニとならば共演しようと意志表示。と同時に、これまで、世界各国でのレコーディングをやってきたストコフスキーのカタログに、イタリアと日本が欠落していたことがわかった。日本だと時差の関係で夜と昼が逆なので、高齢のストコフスキーには無理。それにポリーニも、日本にはその年の春行ったばかりということもあって、ローマでの録音がスケジュール的に最適だったのである。
当時ストコフスキーがほんとうは何才だったのか、私は知らない。だが、このアコースティック吹込み時代からレコーディングに経験と実績のある大指揮者の話は、ずいぶん教えられることがあった。とにかくSPの頃からストコフスキーのレコードは音の良さで抜群だった。そこで、ストコフスキー、レコーディングのときは副指揮者に振らせておいて、自分はモニター・ルームで録音をしたのだという伝説さえ言いふらされた。だがそれは嘘で、いつも録音にめぐまれない他の指揮者たちがやっかみ半分に言ったことなのだそうだ。
ただ、このとき、ストコフスキーはオーケストラの配置を左右逆にならべ、マイクロフォンも左右のチャンネルを逆に立てることを提案したのだが、それだと、ピアノも逆に置かねばならず、結局、ポリーニの切れこみ鋭い、カチッと締まったピアノの音は、右手と左手が逆に録音されていることが、このレコードの再生にあたっての注意せねばならぬ点である。使用上の注意をよく読んでからおかけになるべきである。
(マイク・ステューダー記)》」・・・となかなか凝っていますよね!!エイプリルフールにはうってつけかも知れませんね。

グールドはストコフスキーの大ファンで、彼のラジオ番組で2回くらいストコフスキーにインタビューしていましたね。何故グールドがそこまでストコフスキーが好きなのか、今のところ私には解りませんが、ただ、2回目のインタビューでのストコフスキーの言葉は唖然とするほど素晴らしいものでした。

トスカニーニはストコフスキーが大嫌いでした。グロテスクな音楽だと。
もしどちらかと共演できるなら、ポリーニはトスカニーニを選ぶのではないでしょうか。空想世界での共演なら、ポリーニはフルトヴェングラーと共演なさりたいのでは・・と思います。



No.684 ショパンのピアノ協奏曲 投稿者:マーリン 投稿日:2010/07/10(Sat) 21:45

博多の人さまはいろんなことを知っていらしゃるのでいつも感心しております。いまとなってはストコフスキーはもういないし、ポリーニがチャイコフスキーをやるとは思えないし?グルードみたくピアノでバッハの協奏曲を弾くとも??あるとするとショパンのピアノ協奏曲を再録音するだろうか?そのときは誰と?アバドではないかもなんて想像して楽しんでいます。


No.683 ポリーニと指揮者 投稿者:博多の人 投稿日:2010/07/10(Sat) 08:43

1970年代半ば頃の「ステレオ芸術」という雑誌だったと思いますが、表紙に「協演させたい組合せ」の写真が掲載されていました。ポリーニとストコフスキーによる「チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番」でした。


No.682 共演したい人は誰? 投稿者:マーリン 投稿日:2010/07/10(Sat) 01:23

久々に皆さまの投稿を拝見しました、まだ音楽の友の写真を見ていないので、すぐ本屋さんに行きます。昔、小澤との共演は急に決まったとかの由、読んだ記憶があります。それはさておきポリーニがほんとに共演したかった、でなければ共演したいのは誰なんだろうか?と月9なみに想像しゃいます。カラヤン、クライバー、ベーム、小澤、アバド?みんな素晴らしいブラームスの交響曲のレコードを残しています。あ、それから最近ブラームスのピアノ協奏曲1番とベートーヴェンの後期ピアノソナタをリサイタルでよく取り上げておられますが、昔聞いててもイマイチ納得がいかなっかた曲なので、今日現在どういう演奏をされるのかとっても知りたいです。クロチルドさんの便りによると最終楽章を休まずに続けられたとのこと、ウ〜ンもしかして昔のまま?でも2番でなくて1番をこんなに取り上げるのはなぜ?


No.681 Re:音楽の友にポリーニの写真 投稿者:すみこ  投稿日:2010/07/09(Fri) 18:36

博多の人様、音楽の友誌の写真のご紹介を、ありがとうございました。本当に寛いだ表情で、和気藹々としたお食事会だったのですね。こんなに和食がお好きとは・・・(*^^*)v
eternity様のコメントで、この年の来日演奏会の素晴らしさ、小澤さんとの協奏曲共演の深い意義が判りました。クライバーも同時期に来ていた日本の秋の音楽シーン、その豪華さを思うと、羨望(?)懐旧(?)で胸が熱くなるようです。

クライバーといえば、その栄誉を称えて、バイエルン国立歌劇場とミュンヘン国立劇場友の会で、新たにカルロス・クライバー賞を創設するそうです。2011年から2年ごとに、若い有望な指揮者を選び、1万ユーロの賞金とともに歌劇場への客演指揮の栄誉を与えるもの。次代のクライバーは登場するのでしょうか???



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