東京公演
11月3日(水・祝)《サントリーホール》
プログラムC
バッハ
平均律クラヴィーア曲集 第1巻 BWV.846-869
11/3 東京 バッハ 《ファン》さん
昨日の演奏会、疲れました。
前半は、ほんとに危なかったですね。演奏が止まるんじゃないかと思うことが何度もありました。ポリーニの手は震えていて、演奏はぎこちないし、聞いているこちらが怖くて、心臓が止まりそうでした。
ポリーニは体調が悪いのか何なのか、理由は分からなかったのですが、休憩に入った時点で、もしかして前半でキャンセルするのではないかと思ったくらいです。 それが、休憩中、ピアノに譜面台が設置され、譜めくり用の椅子が用意されて。 後半、譜面を持って現れたポリーニは、演奏会最初の不安そうな表情は一切ありませんでした。鳴り出した音も前半とは明らかに違う。確信に満ちて音を押し出している、持続も素晴らしく!最後まで、一緒に音楽できました。 要するに、暗譜が危うかったのでしょう。俗に言う、単純に暗譜が危うかったで済ますにはポリーニに失礼かもしれません。でも、彼が暗譜で弾くには、他の曲を弾く時に比べて、音楽が体に入りきっていなかったのだけは確かです。ポリーニほどの演奏レベルで、音楽を完全に体に入れきるのは容易ではありませんが。 私も演奏家なのでよく分かるのですが、バッハは古典派以降の音楽を演奏するのとはだいぶ違います。あの時代のポリフォニー音楽を演奏する上での配慮の仕方に、難しい面が多々あります。 そして、ポリーニのバッハの演奏は、これまでのバッハの弾き方を覆して超える、明確に目指しているものを感じます。私が感じたそれがどのようなものかはここでは書きませんけれど。そういう意味も含めて、音楽を体に入れきるのは大変だと思います。
それで、後半譜面を見ながら演奏したことについて、私の意見を書かせてください。
私は、良い演奏になれば、必ずしも暗譜にはこだわりません。暗譜することは音楽を体に入れることですから、もちろん大事であるのは承知の上です。
だからこそ、前半があのような形に終わったことで、複雑な心境で心残りです。 11/04(木) 14:00
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平均律@サントリーホール 《Shimomaruko》さん
突然の投稿で失礼致します。いつもこのサイトの掲示板を楽しく拝見させて頂いておりましたが、昨晩の演奏会(11月3日、平均律第1集)については何かを書きたくて、筆を取らせて頂きます。私は高校生の時にポリーニが弾くベートーヴェンの30番、31番の演奏に夢中になり、以来30年近くポリーニの演奏に魅せられ続けています。その演奏から各種メディアを通して伝わる人柄まで含めて掛け値なしの大ファンと自負しております。 今回の来日ではベートーヴェンと平均律の日に行きました。(3公演すべては財政的にキツかったので。ただ、中2の娘にはどうしてもポリーニのブーレーズをライブで聞いてほしくて、私以外の家族は初日に行ってもらいました。)ベートーヴェンでは曲が進むにしたがってポリーニらしい音が聞こえてきて、心から拍手が出来た演奏会だったと思います。特に32番は圧巻。バガテルも素敵な演奏でした。 私が実演に接した範囲では、ポリーニは大体スロースターターで、冒頭から本当に圧倒されたのは1989年の東京文化会館(ブラームス、シェーンベルク、シュトックハウゼン、ハンマークラヴィーア)の時だけでしたので、30、31、32番と演奏が進むに従って良くなっていくことに驚きはありませんでした。いつも素晴らしい演奏をCD(練りに練った構想をベストコンディションで弾き、更にその中からベストテイクを選んでいるはずの)で聞かせてもらっているので、後半尻上がりに良くなる事に何の不満もありません。いつもコンサートでは目の前でポリーニが弾いているだけでありがたいと思って聞いていました。 さて、昨日の演奏。 スロースターターと言っても取り繕えないほどの前半のモタモタから、後半ピアノが変わったのかと思うほど見違えるような演奏になったと思うのは下記の「ファン」さんと同意見です。個人的に特に印象的だったのは最後のロ短調フーガ。余りに良くて、地下鉄に乗るまでずーっと主題を口ずさんでいました。きらきら輝いているけど冷たくない音で、淡々と、でも熱く演奏が進められ、途中からポリーニ本人すら見えなくなるほど音楽が前面に出ている様子は、正にポリーニの真骨頂だったと思います。本当に素晴らしい演奏でした。 ただ、私が驚いたのは後半からの譜面台。私は譜面を見ながら弾く事に特に異論はありません。良い演奏が出来るなら楽譜を見ながらでも、iPodで聴きながら弾いても良いとすら思います。実際、1989年にポリーニがショトックハウゼンを弾いた時には楽譜を見ながらでした。 ポリーニは平均律をかなり以前から世界各地で弾いていたはずです。(今回も京都では暗譜だったとどこかで読みました。)言うまでも無く骨の髄まで染み込んでいた曲だったはずです。ピアノの発表会の前に、まだ弾き込んでいなくて暗譜が怪しいから、失敗するくらいなら楽譜を見て弾こう、という譜面台と昨日のポリーニのそれとは全く意味合いが違うものと考えます。昨日も前半は楽譜無しでしたから、本当は最後まで楽譜を見る気はなかったんだろうと思います。 要するに、いつも、どんな曲に対しても完璧な演奏を繰り広げてくれていたポリーニが(実演ではスロースターターだけど)、自分で出来ると思った事が出来なかったという事態を目の当たりにした事がショックだったのです。後半楽譜を見ながら弾いたのは、ポリーニの聴衆に対する真摯な姿勢の表れだと、ポリーニファンの私としては、解釈しています。(因みに、譜めくり氏の「サッ」という譜めくりはお見事でした。) だから、ポリーニが楽譜を見ながら弾いている姿を見るのは非常に辛いものでした。素晴らしい演奏を聞きながら、何度か天井を見て音楽だけを聞いていましたが、その時、ふと2人の音楽家の事が頭をよぎりました。 一人は、晩年楽譜を見ながらピアノの周りだけを照らす照明で演奏していたリヒテル。もう一人は、こちらも晩年ですが、ご承知のようにある演奏会の指揮中に記憶が途切れて演奏が停止し(たと伝えられている)、その演奏会後に有名な「我が指揮棒を不本意ながら置き、尚且つ我がオーケストラに別れを告げねばならぬ悲しい時が来てしまった。」という声明を出して引退発表したトスカニーニです。 余りにショックだったので、引退などという極端な事まで考えてしまいましたが、昨日の不調は一時的なもので、又素晴らしい演奏を日本で(2012年?)聞かせて頂きたいと切に思っています。衰えたとか色々書く人はいるのでしょうが、私は昨日程度の事でポリーニファンを引退する気はありません。 マエストロ、再会をお待ちしております。
(長文で失礼致しました)
11/04(木) 21:55
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平均律を聴いて 《すみこ》
ファン様、Shimomaruko様(はじめまして。よろしくお願いいたします)、平均律のリサイタルへのご感想を、ありがとうございました。
ファン様と同じで、私もこれまでで一番疲れた演奏会でした(^^;)。長大なプログラムについていけるかしらと、私自身がすごく緊張して聴き始めたことも一因なのですが。 Shimomaruko様のご指摘のように、ポリーニはスロースターターかもしれませんね(多くの演奏家がそうなのでは、と思いますが)。でも、第1日目は、ショパン「24の前奏曲」からしっかりスタートを切っていたと思います。更に調子を上げてドビュッシー、更に更にヒートアップしてブーレーズ、そして素晴らしいアンコールへと至りました。第2日目はやはり尻上がりに良くなっていったと思いますが、第1曲の30番も楽章を追うごとに引きこまれていきました。
バッハの日は、前半と後半では本当に大きな差がありました。水を得た魚のよう・・・それをもたらしたのが“楽譜”だったのでしょう。
3日は、休憩に入ってすぐに、譜面台と譜めくり者の椅子がセットされました。あたかも後半はこれらを出すと決まっていたかのように。つまり、楽譜を見て弾くことも選択肢として想定され、準備されていたのではないでしょうか。
ポリーニの人間らしさ・・・その弱点も美点も、私には心打たれるもの、より心惹かれるものに思われます。
11/05(金) 16:14
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平均律@11/3 《pooh》さん
初めまして。いつもこの掲示板はじめ、サイトを楽しく拝見しております。 たくさんの情報、ありがとうございます。 普段、書き込み等はしないのですが、私も一昨日の演奏会についてどうしても筆を取りたくなり、初めて書き込みます。
初めてポリーニを生で聴いたのは昨年のザルツブルグ音楽祭です。小さい時からピアノを習っていたこともあり、母共々名前は存じていましたが、何せチケットが手が出ず、それまで機会に恵まれなかったのです。ですが、昨夏半ば思いつきでザルツブルグ音楽祭のHPを見ていたところ日本よりチケットが安いことを知り、ちょうど海外旅行を計画していたので憧れのポリーニを聴くことにしたのです。 そして前半、あれ、どうしたんだろうというほどのもつれやリズムの乱れに聴いていた私がドキドキしてしまいました。スロースターターということはこのサイトでも拝見して知ってはいましたが、それで片付く不調ではないのではないか、もしかしたら空調を弱めるよう希望したということは風邪でも引いたのだろうか、と半ば動揺して聴き進んだ前半でした。しかも、途中、あろうことか飲み過ぎで嘔吐した人の本当に間近に座っていたため、色々なことが頭をかけめぐり落ち着いて聴いていられる心境ではなかったのです。 休憩中に譜面台が用意された時は、少し驚きましたが、しかし、後半の演奏は本当に素晴らしかったと思います。CDよりずっと攻めていて、次から次へと異なる景色の音楽が繰り出され、息もつけない1時間でした。席を替えてもらい、落ち着いて聴くことができたというのもあったかもしれませんが、何かに取り憑かれたような、けれどどこか客観的で整った演奏に心を奪われ、上手く表現できませんが、曲が進むにつれてこの空間でポリーニの演奏だけが生き物のように感じられ、弾き手のポリーニですら存在しないかのように思えました。 譜面台を後半から用意したということに関しては、素人の私見ではありますが、それによって別人のような演奏が引き出されたことを思えばその決断はプロとして素晴らしかったと思います。それと同時に、弾き始めにもしも不安があったとしたらそれでも譜面を置かなかったのはなぜだったのだろうか、弾きこなすことができるはずだったのだろうか、とも思います。その辺りは考えても正解は分かりませんが・・・ けれど、演奏会を聴き終わったとき、心から何かがあふれて体中が満たされたような気持ちになったことは本当に忘れられません。普段立って拍手をしたことなどないのですが、周りが立っているからとかではなく自然と立ち上がり、手の力の続く限り拍手を送りたい、いつまでもこの余韻に満たされていたいと思いました。アンコールがなくても十分すぎるほどの演奏会でした。 平均律は美しい旋律ではありますが曲としては地味だと思いますし、いくらポリーニの音が美しいからといっても全曲聴いた後に自分がどう感じるのか、修行のように感じるのではないかと不安もありました。 ですが、そんなものとは無縁で、後から思い出す度に涙が出そうになるほど素晴らしい演奏会でした。前半の不調が心配でもあり、後半に近い演奏が聴けたらそれはそれでどうだったかなとは思いますが、そういうことも全て含めて、私は「ポリーニの演奏」というものに心を奪われているということを実感しました。 次回聴く機会に恵まれた際には、万全の体調で迫力ある演奏を聴けることを祈りたいと思います。 長文駄文ですみません。どうしてもあの感動を言葉にしたく、長々と書いてしまいました。
これからもポリーニファンの一人としてよろしくお願いいたします。
11/05(金) 17:59
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MOSTLY CLASSIC 2011年1月号 伊熊よし子氏
マウリツィオ・ポリーニ ピアノ・リサイタル 11月3日サントリーホール
演奏を聴いた後、何日たってもそのピアノの響きが胸の奥深いところにたゆたう水のように存在し、感動という名の泉をいつまでも満たしていることがある。もちろんそうした経験は稀で、だからこそ演奏を聴いた時間が貴重に思える。 ポリーニが日本で初めてJ・S・バッハを弾いたその夜は、脳裏に「平均律クラヴィーア曲集第1巻」全24曲の前奏曲とフーガが繰り返し現れ、夜が更けても脳が覚醒し、寝付けなかった。それほど彼のバッハは鮮烈で自然で新鮮な感覚をもたらした。 思えば、ポリーニは1974年の初来日からずっと聴き続けてきた。当初はコンピュータのように正確な演奏といわれたが、徐々に人間性が投影された情感豊かな演奏に変わり、近ごろは円熟の極致とも思える、人の心の奥深いところに訴える演奏に変貌を遂げた。 だが、本質はまったく変わっていない。バッハをモダンピアノの特質、特にペダルを駆使しながら楽譜に忠実に弾き進める演奏は、若い時代の楽譜との対峙と何ひとつ変わるものはない。彼の演奏は余分な物をまったく付け加えない素で勝負するピアニズム。長年鍛え抜かれた完璧なる技巧に裏付けられ、バッハの精神を譜面から読み取り、構造、和声、装飾、主題など細部まで神経を張り巡らしたもの。 集中力と緊迫感と敬虔な雰囲気がホールを支配し、一瞬たりとも気が抜けない。これはモダンピアノによるバッハのひとつの重要な指針たるべき演奏に違いない。 伊熊よし子(音楽評論家)
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※「日記帳」に私の感想(東京公演)を載せました。2010年秋『第三夜 11月3日 』
Bravo e Grazie! Maestro!! 2010年の感動