時々の雑記帳

音楽のこと、ポリーニのこと、日々の雑感を、
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(1月〜3月)

春の憂い
ハクモクレンが咲き始めました。例年より早く梅が開き、紅、白、ピンク、枝垂れ梅と、ゆっくりと楽しめたのは、散歩もしやすい暖冬のおかげでした。沈丁花の香りがふっと届き、ハクモクレンの華やかな姿を目にすると、もう、春ッ!と明るい気持ちが湧いてきます。桜の開花も、きっと早まるのでしょう。

弥生・三月。ひな祭りも過ぎ、春の訪れも早く、いつもなら心はずむ季節。学校では1年の締めくくりの大切な時期、卒業や進級に向けての準備が進み、子供たちが誇りや希望に胸膨らませる時。でも、今年は・・・。
新型コロナウィルスのために、学校は急遽一斉休校となり、勉強は勿論、外出も、遊びも、ままならない状況です。1〜2週間が山場と言われても、毎日のように新しい地域での感染、発病者の増加のニュース。不安感がつのります。
一方では休めない親の悲鳴と子供の不安、休んだ非正規労働者の苦境も切実です。他方、保育関係者の過労は“地獄”のよう、と言われるまでに。一体、どうしたら・・・?
予防法、検査法、治療法等がちゃんと確立されない限り、異常な事態は収まらないでしょう。そしてそれが正確に報道されない限り、安心感は生まれません。春休みまで? 4月からは? と先行きはまるで雲の中。一日も早く終息しますように!! ただ祈るばかりです。

経済活動では閉鎖、休業に至る職種があり、文化的活動も多くのものが自粛、縮小、中止に追い込まれ、無観客試合のスポーツ・イベントも。
でも、音楽会や演劇では「無観客」は有り得ません。衛生面でもエチケット面でも、細心の注意を払って行うか、中止するか、苦しい決断をしなければならないでしょう。また参加する方にも、悩ましい問題です。
皆様もどうぞ健康に十分に気を付けて、安全第一にお過ごしください。

イタリアでも北部で感染が広がり、施設の閉鎖・イベントの中止から、町の封鎖まで行われています。ポリーニのミラノでのリサイタルも、中止となりました。高齢のマエストロのために、ホッと一安心はしましたが、本当に残念なことでした。お膝元のミラノでも、リサイタルはほぼ年に1回。ミラノッ子もガッカリしたことでしょう。
9日月曜日、ハンブルクでのリサイタルについては、まだ中止の知らせは無く、予定通り行われるのかもしれませんが・・・マエストロの安全・健康のためには、飛行機や列車での移動は、避けていただきたいところですね。

さて、ポリーニの新譜「ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30〜32番」、もうお聴きになりましたか。

流れ出した音の柔らかさ、タッチの優しさにまず耳を奪われました。澄んだ音色に温もりがあり、深い心情が込められているよう。一方、ダイナミックな部分は激しく、鋭く、熱い感情が注ぎ込まれているかのようです。
ライブの昂揚感のある演奏、臨場感のある録音です。重く深い響きの低音部のフォルテから、中音域の光沢ある響きで奏でられる表情豊かな歌、光の粒が煌めく高音の美しいトリルまで、ピアノの多様な響きを最大限に活かした演奏と思いました。
ポリーニは万全の技巧を駆使して、ダイナミックに曲を構築し、また精緻に曲想を描きながら、しかも自由に、そして自在に演奏しているかのようです。慈愛に満ちた歌にポリーニの息遣いが感じられ、緩急も強弱も、間合いの取り方にも、心の動きが表されているようで、一心に聴き入りました。ポリーニの心とともに、ベートーヴェンの思いが伝わってきたような不思議な感覚がありました。
ポリーニのこの曲に対する畏敬が表された真摯な、心からの演奏であり、この曲に抱く深い愛情が感じられる、共感のこもった人間味のある演奏です。

若き日に録音されたあの不朽の名演奏は、怜悧な目と、鋭い技巧で為された“完璧な演奏”としたら、今、新録音でポリーニが成し遂げたのは、深い眼差しと、繊細な技巧で為された“完璧な表現”ではないでしょうか。
どちらの録音も、私にはかけがえのない宝物。そしてベートーヴェンの作品が“人類への素晴らしい贈り物”であることを、しみじみと感じさせてくれます。

新譜のリリースに際して、イタリアでインタヴュー記事が出されました。
《Sandro Cappelletto氏 LA STAMPA 1月30日(Webで入手できたのは半月ほど後のことです)》

(前文略)

M.P:今、再録音を決心したのは、最初の録音からもう既に長い時が経っているからです。 これらの作品に夢中になって、キャリアを初めたばかりの若者の無謀な大胆さで、録音をしましたが、それはもうずっと以前のものです。私は現在の考え(idee)で、もう一度やりたかったのです。

S.C:試聴すると、ベートーヴェンの書法の対比を強調しているように感じます。抑えようのない、とても激しいテンションに至る瞬間が時々あり、これまでの貴方の演奏から見ると新たなものですね。

M.P:ええ、数十年間携わってきたこの作品ですが、熟考すべきことがまだ有って、それはもう先送りできないのです。
よく考えられているのとは逆に、ベートーヴェンはその最後期に、トーン(i toni)を下げて(弱めて)はいませんでした。絶対に“NO”です。私はこのトーンを目立たせようとしました。形式の観点からは、ベートーヴェンはつねに(形式を)その(トーンの)要求に従わせています。“自由”が、これらの作品では、一層目立つようになってきています。
 ※〈i toni(tonoの複数)口調、調子、文体、風格、様子、元気、活動、勢い・・・音色、音質、楽音。ポリーニの言うi toniをどう訳せばよいか?で、「トーン」としておきます〉

S.C:この3作品では、広大な歌(canto)の領域が浮かび上がり、ベートーヴェンはそれに身を委ねています。彼のピアノ作品の中で、より内面的で、より率直な声楽性(vocalita')を、ここに探るべきでしょうか?

M.P:3つの作品には、それぞれ全く異なる“歌”があります。そして作品111のカンタービレは彼の他の作品のどれとも似ていません。
ベートーヴェンはいつも声楽性を、ためらうことなく、表現性の要求に従わせていました。声楽性に自らを委ねはしなかった、しかし、彼の表現性(espressivita' 表現豊かであること)を達成するために、それを利用したのです、歌い手の必要性に対してもある種の無関心を以って。
しかし、ここでは違います。それに彼がトリルを頻繁に使うのは、最大限に“歌”を長引かせる、という目的に資するからです。

S.C:作品111は伝統的な3、4楽章ではなく、ただ2つの楽章で出来ています。にもかかわらず“未完”とは言えません。この曲の特有の美を貴方はどのように思いますか?

M.P:2つの楽章は互いに正反対のもので、それでも驚くべき統一性を形作っています。
最初の楽章を終え、続けて第2楽章を演奏する瞬間は、彼の作品すべての中でも、この上なく果敢さを要するものです。

S.C:演奏しながら、この推移に感じる途方もない感覚が、どのようにして元の状態に戻るのでしょうか?

M.P:最初の楽章の極度な劇的迫力と、アリエッタとその変奏曲それぞれのイマジネーションを超えていく奇跡のような瞬間、その間にあるとてつもない隔たりを目立つようにしていきながら。
それは生命の極度の対照です。第5交響曲やコリオランのような彼の大作にある力と等しいと思います。未来へと投じられた作品です:彼の創造的イマジネーションはその時代のピアノの技術的制約を超えている、このことは常に頭に入れておくべきです。
ベートーヴェンは言いました「新しいものはひとりでに生まれる、作者の明確な意思がなくても」と。

S.C:作品111のアリエッタには、シンコペーション風の和音の即興曲が、欠片か断片のように、組み合わされています、ジャズを思わせる・・・

M.P:いいえ! そうした和音をジャズの言い回しと考えたことは、全くありません。素晴らしく壮大なパッセージであり、大きな喜びの瞬間です。

S.C:ソナタ109について話すと、ベートーヴェンは『全人類を一つにする意識(sentimento)を音楽の中で表したい』と書いています。

M.P:このソナタの手稿を見ると、他のどれよりも悩まされた(いじり回された)草稿であることが判ります。何故なのか、いつも疑問に思わされます。おそらく、達成しようと決意されたその意識は、音楽の中で表現するには、とても冒険的で、難しいものだからでしょう。

S.C:音楽の中だけではないですね。彼の作品の倫理的感覚は、最後の作品にも強く残っていますか?

M.P:ベートーヴェンの全ての中に、つねに、存在します。

S.C:次第に難聴へと進み、音から、社会の物音からも隔てられていく状況で、ベートーヴェンは30歳代から57歳での死まで生きたのですが、それは彼の想像力の自由さに影響を与えたのでしょうか?

M.P:大きな苦しみと共に受けたその喪失をも、彼は最大限に利用することが出来ました。難聴は彼に稀有な詩的な資質を開かせました。障害、損傷を資産(源泉)に変えたのです。
クラウディオ・アバドを思い出します。癌について話しながら、ただ不幸なだけではない、いくつかの観点からは、むしろ、恩寵でもある、と彼は言いました。

S.C:マエストロ、貴方は携帯をお持ちでない。この家ではコンピューターを見ず、インターネット接続もありません。必要を感じないのですか?

M.P:携帯やコンピューターを使っている息子が、時々、私のために情報を探したり、興味のある音楽装置で聴かせてくれます。しかし、どうもしっくりきませんね!

(少々難しかったです・・・誤訳もあるかもしれません。 m(_ _;)m )

早くも来シーズンの予定が一つ発表されました。
《4月13日ロンドンにて、リサイタル》スケジュール表に追記します。

2020年 3月6日 22:30

稔りの年に
つつしんで初春のお慶びを申し上げます。

旧年はこちらにお訪ねいただき、マエストロ・ポリーニを巡る話題、情報や、貴重なご意見・ご感想をお寄せいただきまして、ありがとうございました。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

大寒波に覆われて、厳しい寒さの年末年始でしたが、関東地方では晴天に恵まれた穏やかなお正月でした。
いつもは静かな我が家付近にも、幼い子を連れた両親、祖父母も一緒に歩く姿と、可愛い声が聴こえてきました。

我が家でも孫達と一緒に、近くの神社に初詣、皆の健康、平穏な暮らしと、世界の平和を願ってきました。孫娘に「何をお祈りしたの?」と聞くと、「家族が不老不死になるように!」ですって! いや〜、不老不死は・・・神様にもちょっと難しいでしょうねぇ。でも今の状況に安心感と満足感を持っているのならと、ホッとし、愛おしくなりました。
しかし時は止まることなく、人は成長し、また老いるもの。これからの年月が子供達にとって楽しく、充実したものであるように、そして安全で平穏に過ごせるよう、祈らずにはいられません。世界中の子供たちに、いえ、世界中の老若男女にとって。

元日に飛び込んできた一報が、ゴーン氏逃亡の報。そしてアメリカによるイラン司令官殺害の情報。
年末に閣議決定だけで、中東への自衛隊派遣が決定した日本。
国際的にはキナ臭い、火事の怖れさえ感じられる2020年。国内的には政治の崩壊の進みそうな令和2年。せめて山や川の崩壊は無い1年であって欲しいけれど、天災を防ぐのは、神様でも難しいかしら・・・。
もっと平和で明るい、平穏で温かい、希望を持てる幸せな一年を夢見たいものです。

さて、今日は1月5日。マエストロは佳き新年を、幸せなお誕生日をお迎えのことでしょう。
イタリアの空に向けて、お祝いの言葉を送りましょう!

Buon Compleanno!
Tanti Auguri!

マエストロ・ポリーニ、78歳のお誕生日おめでとうございます!

幸多き一年でありますように、お祈りいたします。
なによりお健やかに、実り多い演奏活動をなさいますように。



今年は日本ではオリンピック・イヤー。スポーツを通じた平和の祭典が、無事・平穏に、楽しく行われることを願います。

一方、世界の音楽界ではベートーヴェン・イヤーとなりそうな1年です。
ベートーヴェン生誕250年。フランス革命前夜に生を受け、その中に成長し、作曲家として生きたベートーヴェン。革命の「自由・平等・博愛」と、啓蒙思想の進歩、理想を尊ぶ精神的支柱、また産業革命による物質的発展の時代に、前進、改革、そして未来への希望を心に抱いて。
日本では「楽聖」と呼ばれるけれど、伝記などを見ると、「聖」とはかけ離れたとても人間臭い人。けれどその音楽は、自由、改革、前進に満ちた「創造」。人間的でありながら、人間を超越した次元を目指し、特に後期作品には、天上へ達し、至高の境地へ誘うものがあります。そう「聖」の世界へ。

19世紀に創造された音楽が、今なお決して古びることなく、演奏者によって新たな息吹を吹き込まれる、そして聴くものに大きな力を与える。その大きさと深さに心を打たれます。

21世紀、これまでの(19世紀以来の西欧的な、ですが)価値観が揺らぎ、未来の(これは全世界、地球規模の)不安が迫る時に、この音楽を聴くことで、私(達)の中にも、新たな何かが生まれることを、心から願っています。

マエストロ・ポリーニは若い日からベートーヴェンの音楽と共にある人。まず後期ソナタで、明晰な視点と清冽な抒情と確固たる技巧で、ベートーヴェンの音楽の魅力を、新鮮に、また衝撃的に、味合わせてくれました。
年齢を重ねて、今、またこの音楽に新たな光を注ぎ、創造の妙を導き出してくれるに違いありません。
また、この1年、新たなベートーヴェンへの取組みを考えられているようです。お元気で、お心に叶った活動を、と願わずにはいられません。

2月末の新譜リリース。この年のマエストロからの第一の贈り物を楽しみに、皆さま、良いお年をお過ごしください!

2020年 1月5日 13:30
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