2月も半ばを過ぎ、ふと気づくと太陽の光は力強さを増し、梅も白、紅、薄紅と次々と開いてきました。春はもうそこまで。でも、北陸や東北の大雪被害はなかなか解消されず、今後もまだ厳しい寒さは続きそう。明るい暖かい春が待ち遠しいです。
一方TVを見れば、白一色の世界でアスリート達が、生き生きと“熱い”戦いを繰り広げています。磨いた技を存分に生かせるように、持てる力を出し切れるように、良い結果が出ますように・・・と願いつつ見ています。フィギュアとスピードスケートでの金メダルの快挙は本当に輝かしいし、銀メダルも銅メダルも等しく素晴らしい、心からおめでとう!と言いたいです。
でも、冬季オリンピック=“雪と氷の祭典”とはいえ、吹雪のような悪天候のもとや、凍える深夜にではなく、もう少し良い条件下で行えないものかしら・・・。政治のカゲや、国家のイシンや、経済のチカラやらで、丸い地球が歪んでしまっているようです。次の五輪、夏季オリンピックでは、ま〜るい地球の平和な祭典を、と願わずにはいられません。
さて、1月にインフルエンザに罹られたマエストロは、延期日程の2月5日にバーリに登場され、大喝采のリサイタルを行われました。1週間後にはスイスでリサイタル。どちらもアンコールはショパン「スケルツォ第3番」だったそうです。無事に快復されたようで良かった〜、とホッとしたのです、が・・・。18日のレッジョ・エミリアでのリサイタルが延期との知らせがありました。やはりインフルとのこと。ツアーで移動、大勢の観客の前に登場、お疲れも多いだろうマエストロの仕事。一日も早い快復を、お祈りしています。
新譜もついにリリースされました。すでに聴かれた方もいらっしゃるでしょうか。ご感想を伺えれば幸いです。私は日本版を予約したので、もうしばらく、お預けです。
新譜の発売を期して、でしょうか、La Repubblicaにインタビューがありました。
(2月11日・GIUSEPPE VIDETTI)
「彼のような芸術家は、楽器と切り離してはイメージできない。ポリーニとピアノ。ポリーニはピアノだ。」と記事は始まります。インタビューはミラノ中心部、ドゥオモにほど近い、けれども喧騒から離れた、閑静で洒落た自宅で行われました。
「1970年からここに住んでいるのよ」とマリリーザ夫人、陽気で寛容な、生涯の伴侶、ミューズ、内気で物静かな芸術家の代弁者。「古いアパートで近所の人達とけんかしたのを、今でも思い出すわ。夫がカーネギーホールに出演することなんて、彼らにはどうでも良かったのよ。」
食事を挟んで会話は様々なことに及び、ミラノのこと、ピアノの師のこと、ショパン・コンクールのこと。友人や出来事のリストは驚くほどで、ノーノ、シュトックハウゼン、ブーレーズ、アバドと、現代音楽辞典のようだ。政治についてはあまり語らない。(略)
笑顔で話したのは新譜のこと。「これはドビュッシーの最後の作品です。珍しいのは、2台ピアノのための『白と黒で』という3つのカプリッチョで、息子のダニエーレと共演したことです。」(一人息子のダニエーレ・ポリーニは、春にCDを出す予定だ。)
「どうしてこれまで、一緒に演奏しなかったのですか?」
ダニエーレには彼の生き方、キャリアがあります。でも今回、良い機会に恵まれました。
「ダニエーレさんが音楽家になりたいと言った時、思い留まらせようとしたのですか?」
とんでもない! 考えが一致しない時、励ましたこともあります。それから自由に、やりたい様にさせました。
「お二人が対立することはなかったのですか? 彼は貴方の好きなレパートリーの方へ向かっているように見えますが」
イエスともノーとも言えます。彼のCDにはショパン、スクリャービンとシュトックハウゼンがあります。例えばスクリャービンは私があまり馴染んでいない作曲家です。
「一方貴方は、父上の仕事をしなかったですね。9歳での初めての演奏会で、すぐに有名になっていました」
建築家になろうと思ったことはありません。音楽への情熱は1960年のワルシャワでのコンクールの後にはっきりと判ってきました。そこでピアニストになろうと決めたのです。
「でも、十分に準備してワルシャワに行き、コンクールでセンセーションを巻き起こしたのですよね」
ええ。でも、絶対に勝とうとか、出世しようとは思っていませんでした。全てのことが、あまり世間慣れしていないうちに、為されたのです。
ワルシャワの後で、演奏家としての未来に向き合わねばならない状態にあることが、判りました。要望がものすごく多かったのです。これらの急を要する要求に、大きな規模のキャリアに向き合うのに、私は応えられる状態にありませんでした。
1年半演奏家活動を中断して、時間をかせぎ、勉強に専念しました。レパートリーを豊かにする必要がありました。モーツァルト、シューマン、ベートーヴェンを学び、それから近(現)代のレパートリーに向き合いました。シェーンベルクの作品、現代曲目で最も重要なブーレーズの第2ソナタ、そして70年代に2つの作品を私に書いてくれたルイジ・ノーノに近づきました。ピアノのための曲を書く気など無さそうだったのに、私がかなり無謀にお願いしたのです。ピアノとオーケストラと声楽とテープのための曲を一つ、それからピアノとテープのための...Sofferte onde serene...を書いてくれました。
「音楽への情熱はどなたから受け継がれたのですか?」
すべて家族からです。父は建築家でしたがヴァイオリンが好きでした。母はピアノを弾き歌を歌いました。母方の叔父ファウスト・メロッティは音楽マニアの彫刻家でした。音楽は家族のDNAにあり、それには近現代へ向かう傾向がありました。家族はドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキーを愛していました。家にはすべての芸術への興味があり、その中で自然に、強いられることなく、吸収し、受け継ぎました。
「スカラ座でのトスカニーニに、最初の電撃を受けたと?」
10歳の時に、夢中にさせられました。でも彼がしたことをしっかり見たり、理解したりは出来ませんでした。ワグナーの演奏会で、プローヴェに忍び込んだのです。
それからは偉大な芸術家、指揮者やピアニストの沢山の演奏会に居合わせるチャンスがありました。ルービンシュタインからギーゼキング、バックハウスからミケランジェリ。当時のミラノには活発な演奏活動がありました。指揮者ではフルトヴェングラーやカラヤンの成功がありました。ミトロプーロスの指揮した「ヴォツェック」を思い出します、世間を騒がせたものでした。
「音楽に夢中になったのは、まずショパンからですか?」
いえ、最初はバッハの受難曲とブッシュ・カルテットによるベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲です。ショパンに行きつくのはもっと後、モーツァルトもそうです。
「貴方が基準点と思われる芸術家は誰ですか?」
トスカニーニ、フルトヴェングラー、ワルター、それに知っている、出会った、その多様性の故に尊敬していたピアニスト達です。ああ、あの頃のピアニスト達は! それぞれ異なった個性を持ち、無二の演奏をしました。今日では皆が似ています。ルービンシュタインとミケランジェリとホロヴィッツ(イタリアには演奏しに来ませんでしたが)、彼らの間の相違はとても大きなものでした・・・。
「貴方の位置は彼らの中でしょう、貴方も比類がない」
いやいや、とんでもない・・・(お世辞を嫌う)。(我々は)ある音楽作品の理念を非常に強く、的確に(独自に)形作り、違った風にはできない程です。過去の偉大なピアニスト達の例は、楽譜を尊重していながら、同一の曲を、どのようにしたらさまざまな異なるやり方で演奏できるのか、判らせてくれます。
「シュトックハウゼン、ノーノ、ブーレーズと貴方の友情は、どのくらい重要だったのですか?」
演奏会に現代作品を載せるのは、まだ決して容易ではありません。それは音楽の商業的流れが、大胆で必要な選択を阻むからです。(以前は)より多く、別の形で行われることが出来ました。出来たこと、為すべきだったことが、今は行われません。
戦後、一連のハイレベルなイタリアの作曲家達が存在しました。ノーノ、ベリオ、ブソッティ、ドナトーニ、クレメンティ、カスティリォーニ、マンゾーニ、エヴァンジェリスティ・・・怖ろしいほどの開花です、が、現在それは決して生かされていません。私達は19世紀に留まることなど、絶対に出来ないのです。
「ロマン主義へ、新調性(Neo-tonale)への回帰があり、多くの音楽院の若者はこの方向に関心があります。現代音楽は感情のギャップを生み出したかのようです」
現代音楽はただ様々な感情を運ぶのです。今日、特にクラシック(古典派?)の作曲家が演奏されますが、さらに古い時代の音楽もあります、モンテヴェルディ、ジョスカン・デプレ、カルロ・ジェズアルド。これらも並外れていますが、完全には活かされていません。もちろん私は新ロマン主義的漂流には熱中しません。あれは後ろへ戻る試みです。
「現在の地点に至るまで、どれだけの犠牲を要しましたか?」
音楽は私にとても多くのものを与えてくれました、学ぶ時間は素晴らしく大きな喜びです。同じ曲を最後まで繰り返し演奏してさえ、音楽の楽しみは何ら奪われません。犠牲など何もありません。
(下手な訳で済みませんm(_ _;)m)
スケジュール表に新しい日程(北京、それに来年のアメリカ!)を加え、発表されたプログラム(ハンブルク、シカゴ、ニューヨーク)を追記しました。