“新しい音楽を創造する勇気を取り戻しましょう”
革新的な空間を演奏会ホールにも
「ワグナーはベートーヴェンの第9シンフォニーを聴衆に受け容れさせるために、闘わねばならなかったのです。それは今では誰もが知っていて、ヨーロッパの讃歌に、まさに自由のシンボルになっています。新しい音楽はいつも成功するのに大変な思いをしたのです。」
マウリツィオ・ポリーニは音楽家、改革者としての彼の人生に痕跡を残す理想に、今なお忠実でいる。友であるピエール・ブーレーズの死の数週間後、芸術家の叫び声を上げる。忘れないために、慣れが明白さに勝らないように。会見に充てられた時間はいつもどおりだった。家で、15時から、午前の研究の後、昼食の後で。
「ブーレーズは作曲の天才で、オーケストラの偉大な指揮者で、評論を執筆し、現代の音楽を広めるために出来得ることを全て行った人物です。生涯にわたり首尾一貫していました。彼が亡くなったことは、私には悲しみであり、不安を覚えます。」
彼の音楽と彼の時代が忘却されるという不安ですか?
「総体的な問題なのです。シェーンベルクは100年以上前に調性音楽を捨てました。でも、世界の大多数の聴衆は未だにこの特別な歩みを完全には理解していません。この音楽の表現力が判らないのです。」
なぜでしょう?
「十分に聞いていないからです。その音楽言語を興味と喜びを持って辿ることに慣れるような演奏が、不足しているからです。」
現代音楽を好まない人は、それを拒否するのは我々の耳の自然の性質だ、と言います。
「いいえ! 1400年には音楽作品が古典派やロマン派の時代の作品の終結のように終わるのは、想像もできないことでした。耳の自然な性質が調性音楽向きだということはありません。しきたりと習慣があり、それらは傑作によって確証されてはいますが、しかし自然の法則ではないのです。」
現代音楽の作曲家は聴衆を無視していたのではないですか?
「芸術家はいつも理解されることを望んでいます、でも聴衆のことばかり考えることはできません。彼の動機は探求なのです、さもなければ 気晴らしとなり、作品の偉大さではなく儚い喜びを考えるだけになるでしょう。」
現代の聴衆は無精で、冒険に走ろうとしないのでしょうか?
「これは勿論問題です。さらに、演奏家は新しい音楽を必要な頻繁さでは提供しないし、施設(団体)はリスクを恐れるばかりです。私の経験では、或いは、私は幸いにも、勇気はいつでも、聴衆にもまた、報いられた、と言うことが出来ます。」
聴衆と創造性に関わるこの難しさは、絵画や彫刻、文学の中では生じません。
「それらはより楽に体験できます。観衆との間のインパクトの在り方(仕方)は様々です。音楽は、耐えなくてはなりません。」
耐える?
「絵の前で、彫刻の前で、君は自由です。数分または5秒で見て、先へ行くことが出来ます。面白くない本は閉じることが出来ます。音楽の大作は1時間もじっと聴いていなくてはなりません。」
聴くための新しい場所を考案する必要がありますか?
「何人かの作曲家、例えばノーノ、べリオ、シュトックハウゼン、それに建築家のレンゾ・ピアーノが為した省察です、伝統的なコンサートホールは全てのレパートリーにおいて機能を果たしはしない、と。」
書かれた音楽は無音です。演奏され、解釈される。貴方はカリスマ性ある演奏者です。カリスマとはなんでしょう?
「家で研究している時も、聴衆の中に居る時も、私の仕事は常に理解を新たにすることです。決してやめることのない仕事です。音楽を理解したと言い得ることは、未だ一度もありません、永久に。このことが緊張をもたらし、聴衆にも伝わるのだと思います。」
演奏者の忠実性(正確さ)、或いは自由について。
「忠実性(正確さ)は必要です、でもそれで十分ではありません。常に不確定の要素があり、それが創作者と演奏者が一体化するのを決定するのです。」
ソリストとオーケストラ、指揮者の間ではどのように相互の了解が創られるのですか、例えば貴方とアバドとでは?
「音楽的感性の回路が生まれるのです、それは混和することも、しないこともあります。アバドとは毎回、相互一致を獲得しました。共通の感性が助けとなり、多くの異なる状況で、稀なる錬金術を達成するよう導いてくれたのです。」
貴方は再生された音楽を聴きますか?
「ディスクで沢山聴きますよ、役に立ちます。君は聴きなおすことが出来て、より(鑑賞を)深めることが出来ます。私はコンピューターを持っていません、この世から切り離されていますね。」
クラシック音楽を軽音楽と区別するものはなんでしょう?
「もちろん、違いがあります。まさにこの違いを聴衆に感じて欲しいのですが。」
2016.1/22 LA STAMPA Sandro Cappelletto