時々の雑記帳

音楽のこと、ポリーニのこと、日々の雑感を、
時々(気まぐれに)、書き入れます。

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(4月〜6月)

花を贈りたい
梅雨の入りは早かったのに、雨の日は少なく、真夏のような暑さが続きます。でもこの蒸し暑さは、やっぱり“梅雨”らしいのかな。
今年は地方によっては豪雨に襲われ、突然の雷雨に雹まで降るという、荒々しい梅雨です。梅が実る時だから“梅雨”、梅干しや梅酒(我が家では梅ジュース)など梅仕事といわれる家事もあります。何となく女性的な優しい雰囲気でシトシトと降る日本の雨は、どこに行ってしまったのでしょう。
北海道には梅雨が「ない」という定説なのに、今年は「ある」みたい。地球の環境の変化で、日本の天候も変わり目にあるのかもしれません。
天候も心配だけれど、社会が「変わる」ことへの不安、心配はもっともっと大きい・・・。荒々しい(粗々しい)政治に主導されて、「解釈の変更」などという姑息なやり方で、平和を守ってきた日本の、最も大切な根幹を変えられていきそうなのが、本当に恐ろしいことに思われます。私たちが平和に暮らすこの現在が、未来の不幸な歴史への転換点とならぬよう、なにか出来ることはないのでしょうか・・・。

さて。マエストロは無事シーズンを終えられて、ホッとされているかしら・・・などと思って16日のウィーンの情報を探していたのですが・・・。Janさんから「健康上の理由によりキャンセルとなった」とのメールが届きました。嗚呼! どんな病状か詳細は判らず心配でしたが、すぐ続いてウィーンに聞きに行かれた方からもメールをいただきました。
マエストロはリサイタル前日にウィーンのホテルに入ったものの、当日の午後、ウィーンの街で転倒し、(腕を傷めて)急遽キャンセルとなった、とのこと。夕方にはホテルを発って、アリタリア航空でミラノに帰られたとのことでした。
ちなみに急遽代役として登場したイゴール・レヴィットの演奏が、とても素晴らしかったとの評がありました。

あるサイトを見たらTERMINE(期日)の欄が消えていました・・・もしかして、今後のスケジュールが取り消された? 一瞬怖ろしい思いが過ぎりましたが、翌日には幾つかの演奏会の予定が付け加えられて掲載されました。ああ、良かった〜〜〜。

全身的には重大な怪我(足の骨折とか・・・これがとても怖い)ではないようですが、ピアニストにとっては腕や手の怪我がなにより心配です。一刻も早く恢復されることを、夏の音楽祭にはお元気で登場されることを、祈ってやみません。

今回の更新は、2011年・2012年にルツェルンで行われたPerspectives"のページを新たに作りました(やっと、という感じですが)。パリ、東京、ベルリン(まだ1回のみ)、ミラノでもほぼ同じように行われましたが、ミラノでは幾つか変更がありました。2回目ではベートーヴェンのソナタに代わりドビュッシーが演奏されました。3回目ではソナタ第24番〜第27番の予定が、17番「テンペスト」と29番「ハンマークラヴィーア」になり、シュトックハウゼンの曲もXからIIVとXIに変わりました(今回の作業で初めて知りました)。
また上記の新しいスケジュールを[2014-2015Season]に付け加えました。

2014年 6月21日 1:15

いと美しき五月の・・・
木々の緑が濃さを増して、青い空に映える季節。夏を思わせる陽射しと蒸し暑さにはちょっとゲンナリしつつも、やはり初夏は良いな、晴れたら何処かに出かけたいな〜、薔薇、ツツジ、芝桜、花菖蒲も?・・・などと思う、今日この頃です。生憎昨日は雨の1日でしたが、まさか走り梅雨ではないでしょうね?

5月のポリーニは、長年の友人であるバレンボイム、シュターツカペレ・ベルリンとの共演で、ブラームスのピアノ協奏曲第1番の演奏を、ベルリン、ウィーンという主要都市で計4回行いました。 ベルリンの初日の演奏には、かなり厳しい評があったようです(詳しく読めなかったのでm(_ _)m)。老いと体調不良が肩に重なり、ポリーニらしからぬ動揺や不確かさのある演奏だった・・・、指揮者、オーケストラとの息がピッタリと合ってはいなかった・・・、というような。でも、美しい音色を奏でるポリーニに、聴衆からは心からの喝采が送られた、とありました。

ウィーンではどうだったのかしら、と思っていたところ、お聴きになった方からメールをいただきました。
この日もバレンボイムが率いる、ドラマティックに、また重厚、伝統的な演奏をするオケと、曲の斬新さを見出すかのポリーニのソロの間には、どこか噛み合わないものがあったようです。そのためズレが生じたり、それに対応しようとミスタッチや崩れもあったようです(でも、ソロの部分ではマエストロの調子も良く、とても美しかったそうです)。
「しかし、それでも音楽は素晴らしかったのです。こればかりは言葉ではご説明のしようがないのですが、なにか格別な美しさがありました。」
そして大きな感動を生み、満席にホールを埋め尽くした聴衆のブラボーと拍手を呼び、止む事がない喝采にマエストロとバレンボイムは何度も何度もステージに呼び戻されていたとのことです。

言葉ではどうしても説明できない、と仰りながら「強いて言うなれば、バレンボイムとスターツカペレ・ベルリンの音楽と、マエストロの音楽が真っ正面に衝突し、それでもお互いが自分達の信じるものを折る事をせず、その結果、恰も二つの大きな星が衝突して炸裂して、素晴らしく広大な火花が45分もの間、暗い空を飛び散った現象を目撃した、というような思いです。」

ああ、なるほど・・・。オーケストラとソリストがピタリと息の合った演奏を聴かせるのが協奏曲の理想かもしれないけれど、火花の散るような「競奏」も、特にブラームスの1番においては曲の真実に迫り、心を奪われる魅力的な、感動を惹き起こす演奏になったのではないでしょうか。

19日にはミラノで、ポリーニ・プロジェクトの最終回が行われました。前半のラッヘンマンの新作"...zwei Gefuehle"はこのプロジェクトで初めて披露される作品でした。締めくくりはベートーヴェンのソナタ第30番、第31番、第32番。スカラ座のホール中が轟くような拍手喝采に包まれて、お膝元でのプロジェクトは幕を閉じたようです。

今回の更新は、"Maurizio Pollini's Schedule"[2014-2015 Season]を新たに作りました。アメリカ・ツアーにはプリンストンのリサイタルが加わります。スペインでは子息のダニエーレと共演。翌年3月にはパリに新しく建てられたホールLa Philharonieで演奏、スペイン・ツアーにはバルセロナのリサイタルも加わります。

2014年 5月22日 0:15

アバドを語る
柔らかな緑の葉が木々の枝を覆うようになりました。天候も落ち着き、まさに春たけなわ、いえ、もう初夏の陽気の、爽やかな日々となりました。

4月初旬はロンドンでポリーニの演奏会がありました。お聴きになった方から、素晴らしい演奏だったとメールをいただきました。いくらかミスタッチはあったけれど、艶のある美音で、ベートーヴェンに新たな息吹が吹き込まれたような演奏だったと。緊張感に満ちたテンペスト、大らかなワルトシュタイン、威容のあるハンマークラヴィーア。お元気そうだったとのことで、ホッとしました。
中旬はザルツブルクで活躍中。美しいモーツァルトの協奏曲の初日の演奏がラジオで聴けるようで、楽しみですね。

さて、イタリアの新聞"LA STAMPA"にポリーニのインタヴューが載っていました。3月中旬に掲載されたのですが、1ヶ月経ってWebでも読めるようになったのです。
アバドさんの死去に際しては、多くの指揮者の追悼の言葉が載っていましたが、ポリーニの言葉はありませんでした。けれどもアバドの死を報じる記事や追悼の文章の多くには、"Pollini"の名前がしばしば書かれていました。早朝に弔問に駆けつけたこと、また無二の親友として、共に音楽に革新をもたらした盟友として。またWeb上には、親友を失ったポリーニを案ずる声もいくつか見られました。
ローマで、オマーンで、ロンドンで、「アバドに捧げるコンサート」を行ったポリーニ。その深い想いを伝えてくれる記事です。(拙訳、お許しください)

"Io e Claudio Abbado che musica l'amicizia" (私とクラウディオ・アバド 友情を奏でる人)

Interviewer:Sandro Cappelletto

時間が必要だった。そして今、1月20日の指揮者の死からほぼ2ヶ月が経って、マウリツィオ・ポリーニはクラウディオ・アバドについて話すというアイデアを受け入れた。その50年に亘る芸術的な連帯を、彼らの友情を。
会話は心を込めて、熱心に、特に若い音楽家−アバドとポリーニの経験から多くのことを学べるだろう−のことを考えながら、行われた。
「どこから始めましょうか?」ミラノの彼の家のサロンに落ち着きながら、彼は尋ねた。

最後から、2013年12月2日ののボローニャでの演奏会からにしましょう。ベートーヴェンの「皇帝」をもう一度演奏するのでしたね。それは行われ得なかった。アバドの体調が悪化したのでした。

「私たちはそれを違ったテンポで、もっと速く、演奏したかったのです。協奏曲の一部を新しい構想で、特に第1楽章を。お判りでしょう、このアイディアを実現できなかったのは、とても残念です。」

最後に逢ったのはいつでしたか?

「昨年の夏です、ルツェルンで。彼の体調は良くなかった、でも、こんな風に急に悪化するとは誰も思わなかったのです。この期間、彼は稀有の精神力で、人生の肯定すべき価値有るもの全てに愛着を持ち、もちろん音楽への愛を持って、感嘆すべき態度で困難に立ち向かっていたのです。
おそらく彼は更なる、非常に熱烈な芸術的な発展を見ていたでしょう。ボローニャの演奏会を、それはウィーンにも続くのですが、絶対に行いたいものとして、考え続けていました。とても心痛むことでした。」

貴方達はどのようにして出会われたのですか?

「少年の頃から、ミラノで、です。よく一緒にパオロ・グラッシとストレーレルのピッコロ劇場やスカラ座に行きました。
ボローニャ、フィレンツェで、最初に何かの演奏会を一緒に行いました。我々の間は良い調子で進みました。それから1969年にウィーンで、ウィーン・フィルとバルトークの第2協奏曲を演奏しました。彼のリズム・センスの熟練、このような難しい楽譜への精通は素晴らしいものでした。この経験から、重要な協力のアイディアが明瞭になってきたのです。
彼は私より9歳年上ですが、ずっと成熟していて、カラヤンの招きですでにザルツブルクに登場し、マーラーを指揮して大成功を収めていました。」

1968年にアバドはスカラ座の常任指揮者に就任しました。そしてミラノでは新たな風が吹きました。

「まずミラノで、それからウィーンで、彼は卓越した立案者でした。ウィーンではウィーン・モデルン祭を、それからベルリンでも先鋭的なプログラムを提起しました。ミラノではブルックナー、マーラーの交響曲、ベルクの交響的作品を演奏しようとしました。これらを聴くことはミラノのみならずイタリア中の聴衆にとって、全く新しいことだったのです。
それから記憶すべきオペラがあります。ストレーレル演出のヴェルディ“シモン・ボッカネグラ”と“マクベス”、ユーリ・リュビモフ演出のムソルグスキー“ボリス・ゴドノフ”。それから、現代作品へ門を開き、ルイジ・ノーノとの出会いがありました。」

貴方達のためにピアノとオーケストラのための「力と光の波のように」が生まれました。ノーノからチリの若い革命家ルチアーノ・クルスに捧げられた作品です。ピノチェトのクーデターが続いていた時代でした。
USAでフィラデルフィア管と演奏した時には、何が起こったのですか?

「聴衆にはショックを与えました。ヴェトナム戦争や南アメリカでの弾圧といったUSAの外交政策に対する明白な批判だったからです。」

スカラ座での数年は労働者と学生のための演奏会も目立っています。当時は非常に新しい経験でした。

「それらはアバド、イタリア四重奏団、トリエステ三重奏団、そして私の演奏会で、新しい聴衆を生み出す手助けになるように、また音楽や文化は誰にでも意のままになるべきだとの考えで行われました。とても良い役割を果たしました。もっとラディカルなアイディアもレッジョ・エミリアで展開されました。
この経験が長く続く影響を残せなかったことは、とても残念です。」

その経験は永遠に終わったのですか?

「少なくとも、今のところは。」

70年代の工場から最近のオマーンへの旅に移りましょう。そこはアバドが自ら創設したオーケストラ・モーツァルトの一時期レジデンツァを得る(演奏を行うという意味か?)ことに成功した場所です。この国に何を見出しましたか?

「静穏の時期が続いていました。スルタンのクアボス・ビン・サイードの人物像が強く印象付けられていました。知的で、オルガンを奏す音楽家、おそらく名手で、政治家として住民すべてに保健衛生のための機関と無償の教育を与えた人物です。そしてコンサート・ホールと、オペラ劇場を建設しました。
1月の末にそこで演奏会が企画されていたのです。」

オーケストラ・モーツァルトと、ですね。今、財政不足で閉鎖の危機にありますが、救うことは出来るでしょうか?

「彼らと演奏しました。素晴らしい資質のオーケストラです。もし存続しないということになれば、耐え難いことでしょう。
アバドはオーケストラの創立者でもあったことを思い出さなくてはなりません。ルツェルンのような形態を考えて下さい、彼と共に演奏することを熱意を持って引き受けたソリスト達によって構成され、アバドは彼らを見事に融合させることが出来たのです。
それから若者から成る多くのオーケストラを。彼は型に嵌まることのない若者の格別な熱心さをとても愛していたのです。」

二人の間では演奏解釈の相違など、詳細に議論をしたのですか?

「よく議論していました、でもいつも乗り越えられました。」

セント・チェチーリア管の首席クラリネットのアレッサンドロ・カルボナーラが言っています、貴方がアバドと一緒に演奏する時は、貴方をよく見ていれば十分だった、それで音楽はアバドが望むようになっていった、と。これはカリスマですか?

「音楽をするのに、たとえ異なる観点から表現しているにしても、大切なのはピアノを前にして楽譜について議論することではありません。Noです。本能的な了解のあり様が、言葉よりもっとずっと重要なのです。きっと我々二人の関係はこのように保たれてきて、そのために、この了解が正確にはどのように成り立ってきたか、話すのは難しいのです。これがポイントです:(人は)オーケストラの中に行く、演奏する、そして自然な了解のようなものを生じさせる、その了解は予想はできない、けれどもそれは起こるのです。」

アバドは本能的でしたか、それとも思慮深かったですか?

「どちらもです。稀有な方法でソリスト達を見守りました。幾度となく信じられない程の気配りで私を支えてくれたことに、感謝しなければなりません。」

聴衆には、貴方達はほとんど“対”のようになっていました。

「おそらく我々の間に相互理解、共生の関係があると、感知されるからでしょう。」

もう彼と一緒に音楽ができないという考えに慣れるのは、貴方には難しいでしょうね?

「貴方は私の内奥に触れますね。皆は偉大な指揮者を失いました、私は友人をも失ったのです。」

彼に最後の別れを告げようと、8000人がスカラ広場に集まりました。
(訳者注:アバド追悼演奏会として、1月27日にバレンボイムがスカラ座管弦楽団を指揮して、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」から葬送行進曲″を演奏しました。慣例によりスカラ座は空で、扉を開けて広場の聴衆に公開されました。)

「あの群衆を見ながら、彼の演奏中の信じられないほどの熱狂の瞬間が、脳裏に蘇ってきました。聴衆は忘れていなかったのです。」

新譜のブラームスのピアノ協奏曲第2番を、お聴きになりましたか。私はまだ数回聴いただけなのですが、ロマン派のブラームスの本質が感じられる抒情的でしなやかな演奏、そして構築的な大きさより気宇の広がりを感じさせるような演奏と思いました。聴き込んで行くうちに、新たなブラームスに出会えるようで、とても楽しみです。

新しい日程やプログラム発表がありました。スケジュール表に追加します。

2014年 4月18日 0:30

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