“Perspectives Pollini 2012”が無事に、成功裡に終了しました。今年の春以来、健康を心配されたマエストロだっただけに、安堵感と、虚脱感。
終わってしまった寂しさ、でもそれ以上に、深い感動を味わえた幸福感に浸って、ボーッとした日々をしばらく送りました。そして今は、素晴らしい音楽を聴かせてくれたマエストロに心から感謝するばかりです。
闇に包まれ、一人光の中でピアノを演奏するマエストロが、宇宙の中心のように思え、ホール全体が一つになったような気がした時、目頭が熱くなりマエストロの姿がにじんで見えました。「この時のために、生まれて来たんだ・・・この音楽を聴くために」そんな想いがフッと浮かんで来て。ソナタ第32番の第2楽章を聴いている時でした。
ベートーヴェン後期作品を特徴づける“カンタービレ”ですが、こんなにも美しかったのかと、驚嘆するほどでした。丁寧な、心の籠った演奏は、ベートーヴェンの心の声に耳を傾け、親密に対話しているかのよう。
ポリーニのピアノの音は澄み切って、表現は感傷性や装飾性を排したものですが、その真摯さ、自然さの中に、人間的な温もりが感じられました。
「心より出でて、再び心に戻らんことを」という言葉(「ミサ・ソレムニス」に添えられた)のように、ベートーヴェンの心から生まれた音楽が、ポリーニの心を打って共振し、その響きが彼の手を通じて聴衆の心にまで届いたように、感じられました。
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なに気なく、という風に始まる第30番は、気負いなく自然に流れ出しましたが、ピアノの音の美しさによって、すぐに音楽に惹き込まれました。粒立ちの良い、明晰な音。強い打鍵で、けれど荒っぽさや粗さはない短い第2楽章。フィナーレのカンタービレは旋律が十分に歌われた美しい音楽でした。ピアノの音には温かみが籠って、静かに心を潤していくよう。緊張して聴いていながら、自然にホッと溜め息が出そうな、安らぎのある音楽でした。半ば辺りからでしょうか、ポリーニがグッと曲に入り込んできたのが感じられました。より力強く、鮮やかに、共感を増しながら演奏され、頂点へと至る音の輝かしさ。ステンドグラスからこぼれ落ちる赤や緑や黄の光の粒のような音の滝。その煌めきに恍惚とさせられました。これまでの3回よりもポリーニの好調さが窺われます。
その好調さのままに、第31番は初めからポリーニの本領が発揮された演奏でした。澄み切った音で歌い出される味わい深いテーマ、トリルや細かい音の粒の美しさ。繰り返されるにつれ次第に大きさを備え、喜びが満ちてくる音楽。
第2楽章はベートーヴェンらしい激情の音楽ですが、リズム感良くアッという間に過ぎ去り、次の長いフィナーレへと進みます。「嘆きの歌」の悲しみの旋律、深みある響きの美しさに胸が締め付けられます。続くフーガの力強く、構築的なこと。悲痛な歌の再現、そして連打される和音に続くフーガの再登場。輝かしく曲が進むにつれ、展開してゆく音楽の息苦しいほどの大きさに、圧倒されてしまいました。
今回は1曲演奏し終わるごとに一旦袖に戻るマエストロ。充実した傑作のソナタを2曲も弾いたのだから、最後の1曲は少し間をおいてからでも良いのに・・・。
少し間を、と思ったのは、これが今回の来日の最後の曲だと思うと、聴くのが惜しい(?)ような気がしたから。そして、ここまでの感動を少し鎮めて、気持ちを整理して、臨みたいから。それに・・・もしかしたら、ポリーニの生の演奏に触れる最後の機会かもしれない、と、時の経つのを怖れる気持ちがあったからです。でも、すぐに舞台に登場したマエストロは、そんな感傷を吹き飛ばし、さらなる感動へと導いてくれました。
ソナタ第32番。第1楽章の、運命と格闘するかのような激しい音楽は、内奥に潜む孤独の深さを伺わせながら、凄まじい緊張感を持って、精魂込めて演奏されました。轟く低音の響きと、光が渦巻くような高音の煌めき。深淵から天まで駆け巡るような激しさの内に、ふいに浮かび上がる心からの歌。身じろぎも出来ずに聴き入りました。
そして第2楽章のアリエッタ。澄み切ったピアノの音で奏される静かなテーマは、温もりを持ち、心の内に涙のように懐かしさが溢れてきます。変奏の技巧を尽くし、粋を尽くして、音楽は大きさと深みと高みを得て、別次元の宇宙へと飛翔するかのようでした。
以前の演奏でこのアリエッタを聴いた時、ポリーニが一人天の高みへ昇って行き、演奏の終りとともに地上に戻って来た、そんな孤高の姿を見たように思いました。でも今回は、ポリーニの手によって、ともに天の高みへと、ベートーヴェンの音楽の核心へと誘われ、別の宇宙へと行ったような、そんな奇跡のような感覚、感動を味わいました。
究極の音楽の、稀有な名演奏でした。孤高の人ベートーヴェンの全ての思いが詰まった曲。その全てを全身全霊で受け止めて、至純な、至高の音楽として魂を込めて響かせたポリーニでした。
ポリーニ健在!と前に書きました。けれど今はそれに加えて、ポリーニは進化した! 深化した! と言いたくなります。
若い日に(1978年頃)ポリーニがベートーヴェンのソナタ後期5曲をまずリリースした時、「この曲は、年を取って経験を積んだ巨匠が録音するものだ」「(初期や中期の)もっとポピュラーな作品を録音すれば良いのに」というような批判(?)がありました。ポリーニはインタビューで「後期ソナタは本当に重要な作品だから、若い時から繰り返し演奏した方が良いと思う。そうすれば年を取ってもっと良い演奏ができるから」というようなことを述べています。
そして、その通りに、探求しつつ演奏し続けてきたマエストロは、今や稀有の演奏、奇跡のような演奏で、ベートーヴェンの深い真実を、我々に聴かせてくれるのですね。ポリーニと同時代に居られたことを、その演奏に触れ得たことを、感謝せずにはいられません。
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前半のシャリーノ作品については、やはり判らなかった・・・のですが、「楽器」として発せられながらも、人の声には魅力がありました。器楽も声楽も超一流の演奏者達なのでしょう、緊張感あふれる演奏でした。ダニエーレ・ポリーニさんのピアノの音色も、キラキラと澄んで美しかったですね。
翌日のPerspectives 最終日、シャリーノの声楽(アカペラ)も聴きに行きました。芭蕉の俳句をもとにした曲で、こちらは、やはり判らないながらも、7人の高低の声の饗宴を、少し楽しめ(?)ました。
マエストロ・ポリーニも勿論来場されて、演奏後はシャリーノ氏や出演者達と熱心に言葉を交わしていました。
Grazie mille, Maestro !! Arrivederci !!
黒いコートに身を包んで、ご家族と共に歩み去るお姿を見送って、私のPollini Daysも終わりを告げました。