初春のお慶びを申し上げます。
東京地方ではよく晴れた元旦を迎えました。厳しい寒さに見舞われて過ごされた方もいらっしゃると思いますが、皆様お健やかに穏やかな新年を祝われたことと存じます。今年も素晴らしい一年となりますようお祈りいたします。
今年の聴き初めは何にしようかしら・・・やっぱり2010年はショパンよね。昨年は「平均律」で暮れたから・・・「前奏曲」が良いかなぁ、などと迷って、結局「ノクターン集」を聴き始めました。久し振りのショパン。やっぱりポリーニのショパンは良いなあ、と改めて感動しております。
今年2010年はショパン・イヤー(私としてはシューマン・イヤーも祝いたいのですが)。ポリーニのショパンも、世界中で一杯、聴けることでしょう。より自由に、豊かに、深みを増して。ポリーニにとっても素晴らしいショパン・イヤーになりますように!
あ、ここで、皆様、ミラノの空に向って、お祝いの念を送りましょう!
マエストロ・ポリーニ、
お誕生日おめでとうございます!!
今年もお元気で、幸多い一年となりますように!!
ついでに(って、失礼かな)、新しい録音を密かにお願いしてみましょう。
私は・・・ショパン・イヤーだから、この際、協奏曲第2番など、どうでしょうか(共演が要るから・・・やっぱり「夢」ですネ)。
さて、暮れの28日、La StampaのWebにポリーニのインタビューが載っていました。
聴き手のSandro Cappellettoさんは、"Pollini e la sua musica"というフィルムを作った人です。
ポリーニとショパン
「彼の音楽? 奇跡ですよ」
最高に独創的な音楽家です。彼は父もなく子もない(先達も後継者もない)作曲家と見なしてよいでしょう、フランスの印象主義に影響を与えはしましたが。先立つ人ではバッハとモーツァルトだけを愛し、同時代人たちは愛しませんでした。ショパンの不思議な点は、このような隔絶した位置にいながら、普遍性を獲得し、世界中の聴衆を感動させることです。
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'60年にワルシャワでピアノ・コンクールに優勝した時、マウリツィオ・ポリーニは18歳だった。 2010年にはその名を冠した作曲家の生誕200年が巡ってくる。その音楽への愛は変わることがない。 「ショパンを演奏することは、信じられないほどの恩典です」
ミラノ中心部の彼の家で対話した。話はすべて音楽のことばかりだが、最後にこの国への懸念を述べた。 「とても低いレベルでの妥協が常になされることに満足できません。むしろ、誤りから誤りへと移っているようです」
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《ニーチェが書いています「ショパン、ポーランド人、比類なき人」と。》
彼をその国に結びつける要素は、多くの作品のインスピレーションの源です。しかし、聴く人には、ポーランドだけでなく、一般に少数派の人々のための表現として感じられてきます。ポーランドの人々が殆ど宗教的といえるほど、彼を崇敬しているとしても。
《彼の芸術の核心に入るのに、助けをいただけますか。》
ショパンはかつて誰もしなかったほど、非常に魅惑的なピアノの曲を創作しました。ペダルのもつ力と伴奏を意のままに用いることで、和声の描く現象を貫いて、メロディーをよりよく歌わせるように書いたのです。歌の芸術です。ピアノを打楽器として考えるのでなく、歌う楽器となるようにしたのです。 音のこの美しさを物理(身体)的な観点から実現し、演奏上の諸問題を解決することは、とても難しい課題です。ルービンシュタインが言っていました「打上げ花火みたいなソナタを、何でもないように弾くことはできる。ショパンの曲を演奏するためには、一音ごとに考えなければならないのだよ。」
すべてが我々を惹き付け、彼の音楽の本質に近づいたように思われます。しかし最後には、ある遮蔽された、入り込むのが困難な部屋を見出します。そこに彼の内面が収められているのです。
《あなたがより魅了されるのは何ですか?メロディーの創出、それとも形式の完璧さですか?》
ショパンは素晴らしいテーマを生み出す豊かな創作力を持っていました。それでも、形式の完璧性を求めて必死に努めたのです。そして常にやり遂げました。多分他のロマン派の作品には、冗長なものがあるでしょう。ショパンにはありません。バラード第2番は3つの和音で終ります。それに4つのバージョンがあるのです。ハーモニーは全く変えず、ただ和音の配置を変えただけの。どんな細部にも、細心の配慮があるのです。
《自然や夜や嵐に対する彼の極端な感じやすさについて語った解説があります。この点ではジョルジュ・サンドが忘れられない記述を残しています。》
彼にはコントラストがあります。おそらくまばゆい創作の源となるであろう、殆ど錯乱とも言えそうな興奮状態と、一方で作品を完璧に仕上げる冷静さとの間に。対照的な要素が、結合して、この比類ない創作の秘密を語るのです。それをよく演奏し得るためには、非常に激しい情熱性と、その厳しい謹厳性を統合するように努めなければならないでしょう。謹厳性、彼は極度に、すべて下品なことを嫌悪していました。モーツァルトにまで“ドン・ジョヴァンニ”の中の下品さをとがめているのです!
《ショパンは39歳で亡くなりました。最後の時期の資料には強い抑うつ状態があったとあります。すでに“ただ何か最悪のことを”しかねないと思い込んでいたようです。》
病気の悪化で創作力の衰えを感じて、そのことに苦しんでいました。けれども、最後に、彼はおそらく最高の傑作のいくつかを書いたのです! ことによると、雷で打つようなテーマを創出する力の衰えがあったのでしょう、しかし、最後の作品は恐ろしいほどの深さを持っているのです。
《彼は、パリのサロンで神のように崇拝されていましたが、楽しむすべも知っていたのでしょうね。》
彼は知的で、辛辣で、とても慎み深い人でした。彼のユーモアを語ると…ある夕べ、あるサロンで、夕食の後に、何度も何度も“ピアノを弾いて下さらない?”と頼まれて、ついに言いました「でも、マダム、私は殆どなにも食べていないのですよ!」
《200年の記念の年に何を願いますか?》
偉大な作曲家ショパンという、より明白な認識がもたらされる機会となるでしょう。
2010年には同い年のロベルト・シューマンは残念ながら忘れられがちですが、彼のためにショパンへの素晴らしい定義を掲げるべきでしょう、「花々の下に、大砲がある」と。
La Stampa 2009.12.28
ショパンの曲はもちろん多いけれど、シューマンも忘れずに取り上げる、今年のマエストロです。
更新は、バイオグラフィーに少し追加をしました。
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