若きベートーヴェンの肖像画が表紙の裏に載っているライナーノーツ。キチンとした服装で髪型も整え、輝きある眼差しをしたyoung Ludwigは、なかなかダンディではないですか。
音楽の都ウィーンに出てきた彼は、ハイドン先生だけでなく、シェンク、アルブレヒツベルガー、サリエリ先生にも師事して、とても熱心に作曲を学んだそうです。その傍ら、ダンスも習って、お洒落に気を遣い、ウィーンの社交界に入って行く、それがこの都会に来たばかりの彼の生活だったのでしょう。彼がウィーンに来たのも、受け入れられたのも、貴族達の支援・庇護があってこそ。勿論、彼の才能の輝かしさが、多くの貴族達を感服させ、好意を抱かせ、パトロンたらせたのですが。上流の家庭で夫人や令嬢にピアノを教え、ピアニストとしての評判を高め、意気揚々としたルートヴィッヒ、けれどまた、作曲家として新たな道を目指す、希望と意欲に燃えたベートーヴェン。これはいまだ見たことのなかった肖像画でした。
ポリーニの新譜「ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第1番・第2番・第3番」は、そんな若きベートーヴェンの魅力を十二分に引き出した、いまだ聴いたことのない素晴らしい演奏でした。
2005年の来日公演で1番、3番を聴き、ライヴならではの感動を得たとはいえ、私は曲の特色や魅力を十分に聞き取れたとはいえず、時とともに感動の記憶も薄れてしまっていました。今ここにじっくり聴き込むことのできるCDを手にして、作品の素晴らしさ、演奏の卓越性に、本当に新たな感動を味わっています。
まずこの上なく美しいピアノの音に惹きつけられます。透き通った無垢な音色は、円く、芯があるけれど堅くはなく、温かみを湛えているかのよう。軽やかな音は羽毛みたいに快く、重々しい音は深い水底から立ち上るごとくに、しかもどの音も全体のバランスに叶って、大きな曲の構造を明らかにするように調和の内に響いています。玉を転がすような滑らかなスケール、溌剌としたスタッカート、濁ることのない和音・・・ピアノの音の魅力が多彩に発揮され、一心に耳を傾けるほどに、その美しさは心に染み通ってくる気がします。
明晰なリズムは、早めのテンポとともに、若々しい推進力ある音楽に相応しい快さで、生き生きとした音楽を大きく盛り上げていきます。ベートーヴェンの意欲を、自信を、また挑戦を聞くかのようです。
さらに「細部に神宿る」という言葉さながらに、豊かなベートーヴェンの楽想が、多様にまた緻密に展開していく様を、ポリーニの手は克明に描き出し、この作品に込められた創意、熟慮、また誇りを思わせます。
曲想には、時にモーツァルトを、バッハを、またヘンデルを思わせるものがあり、先達の音楽を深く学んだことを窺わせつつ、独自のベートーヴェンらしさが溢れています。
そして形式の完成には(他の先生からより多く学んだとはいえ)師ハイドンから大切なものを学んだ・・・それが「献呈」として表されたのでしょう。と同時に、出版に際して「ハイドンの弟子」と記すのを断ったというエピソードには、師からの卒業、新たな道を行く独立宣言、ともいうべき決意が示されているのかもしれません。
シンフォニーのように4つの楽章からなる、当時の様式としては型破りなピアノ・ソナタ。悲壮感漂う激情、晴れやかで優しい幸福感、勝利へ向かう明るい雄大さ・・・3つの曲がそれぞれに異なる作風で書かれ、後のベートーヴェンの作曲の軌跡を予言するかのような曲達。ピアノ・ソナタの出発点であるだけでなく、常に新たな創造を目指したベートーヴェンの、作曲家としての輝かしい第一歩(作品番号は2ですが)となる、重要な作品。ピアノを学ぶ方には必修の作品なのでしょうが、演奏会では取り上げられることの少ない曲達。
ポリーニはその重要さを明確に捉え、充実した作品を大きな尊敬と愛情をもって演奏しているようです。生気溢れるリズム、自然なデュナーミク、美しいフレージング、的確なアーティキュレーション。そして優しさに満ちた深みある歌。
若き作曲家の意思を読み取るポリーニの透徹した眼差し、その魅力を余すところなく引き出すポリーニの揺るぎない熟練の技。ベートーヴェンの若々しい姿が目に浮かび、と同時に、現在のポリーニのしなやかな、けれど凛とした姿を感じさせる演奏。
ああ、これも満を持して録音された、人類の宝物ともいうべきCDなのだと、聴くほどに胸が熱くなります。
3つのソナタ、その12の楽章全てが素晴らしい音楽ですが、今私が心惹かれているのは第2番、とりわけ第4楽章。なんと美しくチャーミングな曲でしょう!
魔法の杖をサッと一振りしたように、辺りに光と温かさが満ちて、Graziosoの曲が息づき、踊り始める、優雅な曲想に華やかなヴィルトゥオジティーを散りばめて・・・きっとyoung Ludwigは誰か美しい少女に恋をしていたに違いない、一緒にダンスをして、熱い思いを抱いて・・・などと勝手に微笑ましい想像をしてしまいます。
そして幸せな気分でそっと曲が閉じられた時、もう一つのイ長調のソナタを思い出しました。私の大好きな第28番、夢の中のような、何かを懐かしむような、不思議な第1楽章。もしかしたら、若き日の美しい思い出を、甘い思いを託した曲を、はるか時を経て想い起しているのかもしれない・・・などと更に勝手な空想を膨らませて。そして、そんなことを思うと、第28番の曲の深さも、改めて感じられてくるのです。
マエストロの訪れのない今年の日本の秋。寒さが増すにつれ、うら寂しい気持ちにもなりますが、木々の葉が色づき木の実が生って、小鳥が飛び交い歌うように、秋の実りはそこかしこに満ちています。この新しいCDは今年の秋の実り。感謝をもって、大切に聴きこんでいきたいと思っています。
ヨーロッパのマルタさんから、メールをいただきました。マエストロとともに“On Tour”していたとのこと。
「ロンドンの演奏会は素晴らしいものでした、特にト長調の協奏曲はとてもとても深く、詩的で、私はこちらが好きです。ヴェニスでのノーノも素敵だったけど、マエストロはちょっとお疲れだったみたいです。新聞やマスコミにずっと追いかけられてるのだから、無理もないですね。フィレンツェではとても良い調子で、シューマンもショパンも奇跡のよう。アンコールは“雨だれ”、“革命”、バラード1番、それからとても悲劇的な前奏曲24番でした」
10月末のロンドンでのノーノ作品の演奏会も大成功だったようです。
“Real pain, not mere agitprop”と題する4つ星の評がありました。(Evening Standard)
「単なるアジプロ(扇動的な宣伝活動)ではなく、ここには宇宙的(広大)な苦悩の叫びがある。苦痛がかくも生き生きと、感動的に音楽で表現されたことは、これまでには無かった。」
これは最後の曲「森は若々しく命に満ちている」への評ですが、ノーノの作品が音楽として感動を以って受け入れられて、マエストロもきっと満足されたことでしょう。
今回の更新は特に新しいものは無いのですが、前回の受賞のニュースをディスク毎に付け加え、上記のアンコール曲目をEnglish Scheduleに記しました。