9月の初めは、空が高く感じられる日でした。刷毛でサッと描いたような雲が浮かぶ、穏やかな青い空が広がっていました。その後、長雨が降り、大風が吹き、蒸し暑い日が続き、行きつ戻りつしながらも、秋が歩を進めて来ます。
日中は残暑厳しく、空気が蝉の声で染まっているかのようでも、夕方には虫の音が繁くなってきます。秋の虫達は夜中まで(明け方まで?)途絶えることなく鳴き続けますが、不思議と“ウルサイ”感じはせず、涼しささえ覚えます。鈴を振るような透明感のある音だからでしょうか。
先日リリースされたポリーニの新譜、モーツァルトの協奏曲。その美しい音楽は秋口にピッタリなような気がします。光の中にふと翳りが交じるような、その曲想が。
第17番の、溌剌としたリズムに乗ったオーケストラによるテーマは、軽快な中にも落ち着きがあり、生き生きとしながら端正。ポリーニの指揮による音楽の、センスの良さに嬉しくなります。ピアノが入ってくると、その軽やかで可憐な音色に驚かされます。ロココ風とか宮廷風な典雅さではなくて、もっと純でナチュラルな透明感ある音色。タッチはあくまでも軽く、リズムも弾むように明るい曲想なのに、微笑みの翳に、ふと秘められた悲哀が透けて見えるよう。正にモーツァルトに相応しい澄んだ音色が、ポリーニの手によってSteinwayから紡ぎ出されてくるのです。
第2楽章は至上な美しさの音楽。嘆きとも慰めとも思われる歌が、オペラのヒロインのアリアのように、熱い想いと共に、さまざまに色合いを変え、深められて、心の奥底にまで染み入ってきます。そこに導くオーケストラとピアノの親密な対話に、一音一音、一フレーズごとに、胸を熱くして聴き入ってしまいます。
第3楽章の軽快さ、愉悦感は、小鳥と戯れるパパゲーノの姿を彷彿させます。艶やかな弦楽器、玉を転がすようなピアノに、表情豊かな管楽器が暖かい情景を描き、次第に大きさを増していく音楽は、オペラの大団円を見るような満足感をもって曲を閉じます。
30分足らずの曲の中に、なんと豊かなものが秘められていることか、なんと美しいものが惜しげもなく呈されていたことか。聴けば聴くほど、幸福な思いに満たされて、モーツァルトは人類の宝、と思わされます。そう、そしてこのCDもまた「宝物」。
これまでリサイタルでモーツァルトを取り上げることの少なかったマエストロ・ポリーニ。今年はソナタなどを演奏し、協奏曲をリリースしたとあって、多くの話題を呼び、インタヴューがありました。Net Zeitungというドイツのインターネット新聞に載ったものを、読んでみます。
《モーツァルトの協奏曲はどれもみな稀有な宇宙です》
〈ベームとの共演から30年以上を経て、何故、今またモーツァルトに向かうのですか〉
「これまで少ししか録音をしなかったとはいえ、モーツァルトは私のレパートリーの中で常に重要な位置を占めていました。長年に亘り、さまざまな指揮者と共に彼の協奏曲を沢山演奏しました。何度もピアノの弾き振りもしました。ちょうど今、モーツァルトと特別な関係のあるウィーンフィルと録音したように。」
〈どうしてト長調K.453とハ長調K.467に決めたのですか〉
「説明するのは難しいですね、実際モーツァルトの協奏曲は全てが非凡なものです。私はこの2つの曲を確かに格別なものと思いますが、他の曲も同じように素晴らしいと言えるのです。」
〈時とともに、モーツァルトとの係り方も変化しましたか〉
「本当に確かなのは、その作品の中に、いつも深い洞察を見てきたことです。モーツァルトのような天才は、音楽家の一生涯に亘って、伴に在るものです。彼の協奏曲はどれもみな稀有な宇宙です。どんな演奏も、モーツァルトの作品が提示する、多様性のある表現の可能性をすべて汲み尽くすことは出来ません。」
〈モーツァルトの音楽は表面は軽く晴れやかです、けれどもその下には深い憂愁が隠されていますね、イ長調K.488の崇高なアダージョのように〉
「モーツァルトの音楽は二義のあるもので、その点でウィーンの典型的なものです。その見かけの素朴さの中に、同時に極めて深遠なものが存在するのです。モーツァルトの音楽を演奏する時、彼の要求するものに適うには、芸術家として、もしかすると恩寵を得た特別な状態で在らねばならないのです。」
〈2006年記念イヤーは、総じて、モーツァルトを評価するのに必要だったでしょうか〉
「いや、モーツァルトは、全く、常に現に在るものなのです。しかしこのような記念の年は、彼の余り知られていない曲を知る、良い機会になるでしょう。私は今年、ザルツブルク音楽祭でソロのピアノ曲を弾きましたが、その中に素晴らしいアダージョロ短調がありました。あれは本来、もっと世に知られるべき作品です。」
〈モーツァルト・イヤーは批判もされています。例えばアーノンクールやモルティエは、作曲家への大騒ぎを嘆いています。音楽が余りに商業化されて損なわれる心配はありませんか〉
「実際、こういうリスクは、今日の消費社会に存在します。モーツァルトだけでなく、他の文化の領域もその危険に襲われています。それでもなお、特別なモーツァルト・イヤーが、若い人たちを偉大な音楽へと強く導くことを、私は望んでいます。」
〈モーツァルトはすでにポップカルチャーの一部になっています。ミロス・フォアマンの「アマデウス」を考えればよいでしょう。ブーレーズはあるインタビューで「モーツァルトの音楽はいかなる時もポピュラーになってしまうことはない」と言いましたが、あなたはどう思いますか〉
「私は、クラシック音楽は誰にでも親しみ得るだろうと思っています。もちろん、モーツァルトやベートーヴェン、ブーレーズやシュトックハウゼンの音楽の素晴らしさを、他の人より一層よく解せる鋭敏な人はいます。しかし音楽家として私は、その上に、クラシックは、新しい音楽の作品を含めて、常にもっと多くの聴衆を見出すようにと、望んでいます。勿論、是が非でもということではありません。巨大な(数の)聴衆のための上演などには反対です、良い音響がもはやそこでは保証され得ないという場合です。」
〈ウィーンでの"Perspektiven"では、現代音楽と過去の優れた作品とを一緒に演奏します。そこで重要なことは何でしょうか、コントラスト、それとも関連した要素ですか〉
「両方です。私は強いコントラストに対する心配はありません。例えば非常に対照的なもの、それからさまざまな時代の作品を一緒にしたプログラムを演奏しました。我々の音楽の遺産と現代音楽がどんなに豊かで多趣であり得るか、聴衆が理解することを、願っています。平凡で単調な音楽に慣れた若い聴衆が、より面白い、より深く感動させる音楽経験があるということを、もし感得し得るならば、私はとても嬉しいのですが。」
Corina Kolbe (Net Zeitung, Sep.4)
も一つ別のインタヴューから。
「モーツァルトの全てのピアノ協奏曲の中で、この2曲は彼のお気に入りの内に入っている。ポリーニは言う、これらは彼の気質に最も近いものだから、と。」(Die Welt)
今回の更新は、スケジュール表に追加(来年のザルツブルク他)と、ディスコグラフィに2枚(Steinway Legend、A Trail on the Water)追加しました。