梅雨に入って一週間、鬱陶しい日が続きます。家にいることが多いので、CDを聴いたり、Webを見たり、またボォッとしていたり・・・。結構楽しているのに、なんだか疲れを感じるこの頃です。皆様はお元気でお過ごしでしょうか。
マエストロは今日18日はパリでリサイタル。5月末から1週間も立たないうちに、3つの都市を飛び回ってリサイタルを行なったマエストロ、お疲れになったことでしょう。2週間の休養でもう充分リラックスされたでしょうか。
その3回の演奏会は、いずれもショパンとドビュッシーの同一プログラム。いくつかの批評からその模様がうかがえます。少しご紹介しますと・・・。
ブレーシャの演奏会は満席、切符売り場ではファンが空席を奪い合うほどだった。ポリーニは聴き逃せない、逃すべきでない、それは大演奏家という名前だけでなく、偉大な音楽の内容が、どの彼のリサイタルをも並外れたもの、それどころか比類ないものにするからだ。
例えば彼のショパン。彼は以前流行った似非ロマンチックな感傷的な態度に逆らう視点で進めてゆく。ポリーニのショパンは優しく、しかしまた果断な、実質のあるものだ。それは「2つのノクターン」で既に感じられ、前半への最良の前奏曲となった。提示された主題を、絵画的な二次元性の中で単調に示すのでなく、決然として形式上の厳しさをもって聴衆に届けることで、強く刻み込むことができる、そこに彼の功績がある。「バラード第3番」の呈示部の明澄さ、比類ない「スケルツォ第3番」の挑戦的で力強いショパン、明るい「舟歌」、とても繊細な「子守歌」、これらを思えば充分だ。ポリーニのこのような演奏は、最近のことではなく、むしろ長い発展の結果だということを思い起こすべきだろう。それは多くの大・小の音楽上の虚飾を除き清めることから出発したのであるが、それら最悪の嗜好の所謂“美しいもの”が、何十年もの間、ショパンという作曲家を聴き、評価する仕方を毒していたのである。
ドビュッシーも同じ様に素晴らしかった。ポリーニは「霧」の斬新な響きを「枯れ葉」の繊細な哀愁に、また「妖精はよい踊り子」の悪戯っぽさに変化させる。ドビュッシーの好む上機嫌さは、「風変わりなラヴィーヌ将軍」や「花火」のよく知られた引用に表われる。けれども「月の光の降り注ぐテラス」でポリーニは、比類なく洗練された詩的な真の傑作を贈ってくれた。
練習曲「ワルシャワの陥落(革命)」を含むアンコール(3曲)も素晴らしかった。ピアノの鍵盤の上を、中途半端でなく、最高に激しく怒り狂うショパンだった。
忘れることのできぬ、稀有の成功である。
ウィーンの演奏会は亡くなったベリオに捧げられました。
ここでは“しばしばクールな印象を与える、明晰な分析家”ポリーニとしては「ショパンとドビュッシー」のプログラムが珍しいことと思われたようです。そしてやはり「冷たいショパン」との批評もありましたが、一方、輝かしい輪郭を描く「ノクターンOp.55」、銀色に明るい鐘の響きの印象を残す「子守歌」、「舟歌」のリズム感に魅了された、との評もあります。
ドビュッシーでも、澄明さと純粋で混ざりけない音を織り上げる巨匠として健在で、各々の小曲の独自性を保ち、感情を描き入れながら、ポリーニは微細な音のニュアンスをも追究していた、と。ピアニストの純粋な印象主義は、散漫になって失せること無く、常にフォルムを維持していた、とあります。大きな歓呼に、いくつかのアンコール。
ロンドン公演の感想を鶏共和国掲示板でご覧になった方もいらっしゃるでしょう。聴衆は皆、熱狂的な喝采で、4曲ものアンコールがあったようですね。
この演奏会もベリオに捧げられました。新聞評には4つ星で、次のようにありました。
ポリーニは控えめな小品を叙事詩的な経験へと変えることができる。「ノクターンop.32」では、リリカルな長調のメロディが暗い和音の領域になだれ込み、最後の悲歌は強い悲劇性を帯びる。サロン音楽的な虚飾を剥ぎ取って、あたかも多義的な感情の世界を開いたようだった。これは亡き友ベリオに捧げる演奏会に相応しい開始だった。
ポリーニはレパートリーへの知的な関わりで有名だが、長い曲での選曲も見事だった。「舟歌」は次々と高まる揺れる波の連続として組上げられる。「バラード3番」のリリシズムは、音楽的ファンタジーと構築的な意思を結ぶ演奏によって、御影石に彫った壮麗な建物に変容した。だが圧巻は「スケルツォ3番」だった。彼はピアニストとしての力量をフルに発揮し、技巧の完璧さと感情的に圧倒しさるコーダで頂点に達した。
しかしポリーニのショパンには、建築的な厳格さより更に多くのものがある。「子守歌」は優しく、繰返される素朴な低声部にのって、一連の変奏を即興的に奏しているように見えた。アンコールの最後に演奏された「バラード1番」では同様に自然に発露する輝きがあった。それは完全性と自由性を結合させてカプセルに入れたようで、それが彼をこのような完璧な演奏家にするのである。
ドビュッシーの前奏曲第2巻にも、同じ質がもたらされた。どの曲も幻想的なイメージを呼び起こすように、ピアノの技巧が探求されていた。ポリーニの魔法のような演奏は、ドビュッシーの多彩で風変りな登場人物達に生命を与える、がそれは、表面的な華々しさよりも、明晰さとコントロールによってである。
踊る妖精や、風変わりな将軍の巧みな写実もあったが、後者ではドビュッシーの歪んだメロディーにポリーニ自身の特異性を付け加える:彼のしわがれた、即興的な歌声が音楽のウィットとドラマを高めたのだった。
最後の「花火」は華やかなクライマックスだった。ほとんど休止なしで12曲を弾き、ポリーニは交響的な一刷けをセット全体に与える、それは、彼の演奏における知性と詩情の錬金術的な融合を、より明白にするものだった。
演奏の後、サイン会に長い列を作るファンに、気さくに応じられたというマエストロ。お疲れさまでした。
今日のリサイタルは、久々にドイツ音楽系ですね。どんな曲目か気になります。ご存知の方、お知らせいただけると嬉しいです。
サンクト・ペテルスブルグの情報も全く判りませんが、シーズン最後のリサイタルが素晴らしいものとなりますように。
夏のザルツブルク音楽祭には、シュトックハウゼンの新作が初演されますが、出演者リストには声楽とシンセサイザーの演奏者名だけ。以前はMaurizio Pollini;Klavier とあったのに。 作曲上の変更なのでしょうか、ポリーニの出演はないようです。スケジュール表を更新し、シエナの曲目を載せました。