時々の雑記帳

音楽のこと、ポリーニのこと、日々の雑感を、
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(10月〜12月)

Buon Natale!
早くも12月半ば過ぎとなりました。本当に時間の経つのが早い師走。
我がマエストロも、ベルリン、パリ、ロンドンと早足で巡り、無事に今年の活動を終えられたようです。今頃はミラノのご自宅で寛いでいられることでしょう。Buon Natale! ごゆっくり、佳い時をお過ごしください、マエストロ。

ロンドンでの演奏会のレヴューがありました。「皇帝」の部分だけ、サッとよんでみると…

“Titanic”とベートーヴェンの「皇帝」協奏曲は、よく形容される。だが、その意味するところの威厳、畏敬、殆んど超人のような感情的、精神的な苦闘・・・が演奏に表されることはそう多くはない。だが偉大なイタリアのピアニスト、マウリツィオ・ポリーニは、見かけからもその資質を断然もっているようであり、彼のロンドン・フィルとクルト・マズアとの演奏は並外れた、無比の体験となった。
ポリーニの演奏は、最も大きなスケールで構想されている。その壮大な重みは、最初からピアノの開始のファンファーレとして立ち上がり、挑戦的な、記念碑のような威厳を確立する。そののち、激烈な感情を統御しながら、ベートーヴェンの容赦ない構築的論理にそれを従えていく、彼の恐るべき知性の働きを感じとるのである。

ここでは、身振りの壮観さと表現に富む技巧が、離れ難く結びついている。第1楽章の猛烈なオクターヴは、次第に増大するドラマを分裂させることなく、明澄な時に道を譲る。アダージョのクライマックス、そこではソリストは最後に弦楽の賛美歌のような旋律を引き継ぐのであるが、それは貴族的な尊大さと平静さをもってなされた。一方フィナーレはディオニュソスのように意気揚揚と危険を孕んで走り抜けられた。

マズアはしかし、ポリーニの白熱の演奏に合せるのに少し間があった。オーケストラの第1主題の呈示は力に欠けるように思えたし、指揮者は第1楽章の展開部に至って、やっと調子を得たようだった。
(The Guardian, Tim Ashley, December 13, 2003 )

去年のプロジェクトでの演奏を懐かしく思いながら、さらに力の漲ったマエストロの「皇帝」を、思い描いています。

来年のスケジュール表にいくつか追加しました。
3月には、スペイン北西の海辺の町ラコルニャで演奏会。久しぶりの「ピアノ&指揮」だそうです。 曲目は? モーツァルトかしら? 何番でしょう・・・興味を引かれます。
スペインの情報にお詳しい方、なにかご存知でしたら、お教えくださいね。

2003年12月16日 14時31分

スピーディに過ぎる師走
このところ毎朝のように「田園」を聴いています。軽やかで楽しくて、そのスピーディな音楽に家事もはかどります。あ、ポリーニの弾く「田園」ではなくて、クライバー/バイエルン管の新譜。話題になっているので、お聴きになった方もいらっしゃることでしょう。HMVなどのリスナー・レヴューでは、厳しい評価が多いのですが、私はこの演奏、とても好きです。音質(録音)が悪いという意見は、確かにそうかもしれないけれど、演奏はクライバーならではのもの、聴くことができて本当に良かったと思います。

初めて聴いた時はそのテンポに驚かされました。Allegro ma non troppoだけど・・・troppoじゃない?と思ったのですが、聴きなれて違和感がなくなってくると、これまで他の指揮者で聴いてきたのがAllegroとはどうしても思えない・・・。爽快な風を受けながら、前へ前へと歩を進めるような、生き生きした、楽しい気分が溢れ出す音楽。軽快なリズム感が利いているので、早いからといって平板に流れることはありません。第2楽章はゆったりしたテンポ(ワルターより遅い)で、小川のほとりの情景を描きながら、そこで寛いでいる作曲者の幸福感を表すよう。続く2つの楽章は、まさに写実的。その早さに驚かされた、軽やかなリズム感とエネルギー溢れる農民の踊り。雷鳴は本当にすぐそこに落ちたよう、嵐の迫力も真に迫って恐ろしいほど。ベートーヴェンは“田園を描写したんじゃない、そこで生まれる感情を表したのだ”と言うけれど、真に迫った描写は、確かに、楽しさを生き生きと伝え、怖れの感情を引き起こします。そして終楽章の美しさ。中間部、「さあ、歌ってごらん」とでもいうように優しく伴奏型が奏されると自然にテーマが心の中に流れ出し、伴奏のうねり、高まりと共にいつしか風に乗って天空に運ばれるような心地良さ。 大きなものに満たされ、感謝の思いが湧いてきます。何ものかへ、そしてこの曲を遺してくれたベートーヴェンへ。
後世の者は、第9を、ミサ・ソレムニスを、後期のピアノ・ソナタ、弦楽四重奏を知っています。「楽聖」ともいわれるベートーヴェンを神聖視することもありえます。でもこの曲を作曲した頃、「傑作の森」を逍遥する彼は、もっと人間臭い人だったのではないかしら。同時期に「運命」を作曲し、後に「舞踏の聖化」第7番を作曲した彼。エネルギッシュで、激しい性格で、何より生き生きしたものを愛した彼。田園は彼にとって癒しの場である以上に創造の場であり、自然から大いなるエネルギーを受ける場だったのでしょう。このクライバーのテンポ(解説によればベートーヴェンのメトロノームの指示に忠実であるとのこと)は、生命力の横溢、流動、そして躍動を感じさせるもので、稀有の演奏だと思えてきます。

ポリーニ・サイトなのに長々とクライバー「田園」の感想を書いてしまいました。関係ないじゃん・・・イエイエ、実は、関係あるんです(笑)。
ある本にこんな文がありました。(ポリーニがダニエーレと一緒に来日した折のこと、ホテルで「田園」のレコードをかけると)「ダニエーレ君が興奮したようになって指揮するのです。何度も聴いて覚えてしまっているので、本当の指揮者のように適格な身振りで。すると『この子はカルロス・クライバーが家にきたときに、ちょっと振ったのしか見たことがないはずなのに』とポリーニはとても喜んでいました。」(ONTOMO CD BOOKS、佐々木素さんの話)
へぇ、クライバーも「お家で指揮者」みたいなことするのね、と微笑ましく思っていたのですが、さて、この時クライバーが振ったのは誰のレコードに合せてかしら? 他の指揮者の解釈、テンポで振ったのかしら・・・それとも、もしかしたら、この「息子に贈られたカセットテープ」を持ってきて、「こないだミュンヘンで振ったんだけどネ・・・」なんて言って、一緒に聴いたのかな?などと想像してしまいました。(やっぱり、あんまり関係ない?)

さて、本当にマエストロに関することは。
ANSA通信に、ベルリンでの演奏会の短い報道がありました。

昨夕ベルリン・フィルハーモニーで行われたポリーニのショパンの音楽によるソロ・リサイタルは、大成功だった。イタリアのソリストは2時間にわたる演奏で示されたその演奏の完璧さと、集中力で、聴衆を熱狂させた。熱烈な拍手と喝采を浴びて、この比類ない、二度とない演奏会に、ポリーニはまた3つのアンコールを演奏した。唯一否定すべき音は、聴衆の携帯の呼び出し音(コラッ!)と突発的な咳(のど飴なめてヨ!)だけだった。(カッコ内:訳者)

スケジュール表にいくつか更新を載せました(一部は前回更新の後に、すぐ載せたものもあります)。6月ロンドンで、ブラームスの1番をサヴァリッシュさんと。20数年前の東京での演奏(後に放映されたものですが)を、思い起こします。

2003年12月5日 17時30分

静かな休日
空気は冷たいけれど穏やかに晴れた三連休(北の方では大荒れのようですが)、皆様秋の日を楽しんでいらっしゃいますか。
1年前のこの休日、虚脱状態でただただ「マエストロに感謝の日」だったように記憶しています。今年は少し家人にも、感謝しなくては・・・。

ワールド・ピアニスト・シリーズの発売を前に、5月のプログラムがひとつ発表されました(ポリーニ・ファンなら例え曲目未定でも購入すると思いますが)。素晴らしいオール・ショパン・プログラム、本当に楽しみですね。ファン・サービスとも言えそうな魅力的な曲ばかりですが、でもポリーニは、単にアレもコレもと並べるのではなく、現在の彼のショパン像を一連の曲を通じて、クッキリと描き出してくれることでしょう。
ポリーニのプログラム・ビルディングの巧みさ、意味深さについてはいつも言われることですが、近頃のポリーニはより自由に、弾きたい曲、聴かせたい曲を選んでいるように感じられます。ベートーヴェンとショパン、ベートーヴェンとドビュッシー、ショパンとドビュッシー、シェーンベルクとシューマン、ショパン等、多彩なプログラムを融通無碍に組んでいます。
一見すると、前半・後半に分かれた演奏会、しかし、聴いてみるとポリーニの意図、というと語弊があるかもしれないけれど、彼のある意思の貫かれた演奏会。ポリーニの広い視野と深い読みによって、新たな光が当てられ、音楽の潮流が感じ取れるようなリサイタルとなるようです。彼の愛する全ての曲は、時代別、流派別に隔てられて存在するのではなく、有機的に結びつきながら、彼のうちで生き続けているのでしょう。

今月初めのシュトゥットガルトのリサイタルも、聴衆に大きな感銘を与えるものだったようです。

知的 にも拘らず 情感深く

Oscar Bieという音楽評論家が、シェーンベルクの作品11を以って、ピアノが“全部の音楽の鏡”としての使用、つまらぬOrchestrion(自動ピアノ?)としての使用をついに終わらせた、と賞賛し、作曲家をピアノのオリンポスへと昇らせている。彼にとっては無調性の誕生よりも、ピアノの独自性の表明が重要だったのだ。

Bieの理想に忠実に、長いピアニストのキャリアを通じて音楽のフォルムを熟考し、内なる耳で細心に探ってきたのがポリーニである。彼の演奏会はその伝説的なシェーンベルクの作品で始まり、極限まで行く傑作と成した。
ほんの少しロマンティックなカンタービレを、またロマン的にするペダルの使用にわずかに耽ることを、彼は自らに許す。2曲目は、リストの「悲しみのゴンドラ」へと様式的に近づける。響きの領域で、こうして19世紀的な評論にパスさせる。しかし彼は示すのだ、シェーンベルクは見かけの親しげな外観の下に、20世紀的な構造上の深淵を穿っていることを、テンポの構築物を、新しい無比の錨として、耳に投げ込んだということを。

こうして始められた演奏会では、作品11より70年前に作曲されたシューマンの幻想曲が、突如として非常に現代的に−もしかしたらシューマン自身が夢想しなかったほどに−響いた。それはこの夕べにポリーニが調えた一連の、演奏により驚かせることの一つだ。
シューマンはこの曲を、全てのピアニストの中で最も大胆なリストに献呈した。ヴィルトゥオーゾ的に演奏されるべきである。ポリーニにあっては、もちろんこうではない。彼は、煽情的にざわざわと音の滝を登ることでAhとかOhとか(の感嘆)を狙うアーティストではないのだ。
この曲でもまた熟慮されたテンポがあり、耳を惹きつけられた。最初の和音を、これほど情愛深く、これほど沈着で、これほどファンタジーに満ちたエネルギーで炸裂するように、聴くことがあるだろうか? このエネルギーを頭にすえて、シューマン的な響きのファンタジーの宇宙を、一瞬にして輝き渡らせる、そんなことを成すピアニストがいるだろうか? ポリーニのテクニックの輝かしさはつねに完璧ではなかったとしても、それは少しも妨げにはならなかった。

最後に、彼の大いなる音楽の愛、ショパンを、ポリーニは愛情深く、だが厳しい知性を全く放棄せずに、またそれを望みもせずに、演奏した。
幻想曲を、熱狂的なエネルギーでリズムの爆発の際まで駆り立てる。ショパンの音楽にいかに多くの険しさを求め得るとしても、その清らかで繊細な精神的要素は損なわれることはない。
またノクターンで、舟歌で、子守歌で、ポリーニが明らかにしたのは、古典的な禁欲性を共にし、しかもなお領域の限界を広げる耳を持つことで、ショパンは彼と最も近い(似ている)ということだ。スケルツォ第3番でついに、ラヴェルの“スカルボ”がショパン作品の自然の継続と彼が見なしていることに、ポリーニは何の疑いも与えなかった。
さあ、シェーンベルクはどう言ったろう?「ある観念は決して消え失せることはできない」
スタンディング・オヴェーションと3つのアンコール、勿論、ショパン。
(Annette Eckerle, Stuttgarter Zeitung, 2003.11.12)

このリサイタル後半のショパンは、5月の日本で聴くことができます。楽しみですね。

今回の更新は、スケジュール表にいくつか日程や、プログラムを付け加えました。

2003年11月23日 14時15分

ナポリのめぐみ
「目に微笑みを浮かべてポリーニはナポリを思い出していた・・・」
こんな風に始まる記事がありました。演奏会に先立って簡単なインタビューが行われたようです。
ナポリを訪れるのは12年ぶりとのこと、美しい風光とともに、演奏会の、友人との、懐かしい思い出が一杯なのでしょう。
イタリアとひと口にいっても、北と南は気候・風土・文化も随分異なっているようです。北部の中心地ミラノのマエストロの音楽は、この土地でどのように迎えられたのでしょう。この日の夕方には「ポリーニの慎み深さからそのままになっている空白を埋めるため」レスターニョ氏が、自ら監修した本「Maurizio Pollini:Ritratto di un artista」を紹介する会が開かれ、ミケリ氏と演奏会主催のスカルラッティ協会ボッサ氏も同席したとのこと。熱心なファンでもある良き友人に恵まれているマエストロです。
インタビューは後でゆっくり読むとして、まず演奏会評を見てみると・・・。

サン・カルロでの成功 ポリーニ、建築のように音響を賞賛

ナポリを訪れたポリーニのリサイタル、全く純然たる演奏会は、ただ一度のイベントというに値するものだった。輝くような興味深い演奏のためだけでなく、多くの純粋な喜びがそれに伴っていたのだ:満員のサン・カルロを見ること、最後の10分間の喝采を楽しむこと、もう終わらないで、との願いの中で順々と4つのアンコールを聴くこと。スカルラッティ協会が市民に贈った大切な一夕だった。
ピアノの本質と演奏へのアプローチに、かなり隔たりのある二人の作曲家をポリーニは選んだ。それによってソリストの知的な練達が意義深く描き出されることになる。まさに18歳で早熟な(生意気な)ショパンで世界を唖然とさせた彼、一方では成熟とさらなる自覚の時期に、ドビュッシーへと到っている。これらはみなよく感じとられた。
例えばショパンは、唖然とさせる必要を感じないほど彼についての経験をつんだポリーニが、その魅惑的な(表面上の)正常さからより多くのことを把握する手掛かりを抽出しながら、その上で行動する土地である。
幻想曲はうっかり聴いているとちゃんと終わるのか不安になるほど、一定でない運び方をする、が、実際には、解釈というフィルター抜きで近づくために明瞭な、不可欠な即興的な遊びを暗示しているのだ。密度の濃い他の5つの曲目から、次に子守歌を取り出そう。抒情的な感興を一面に漲らせ際立たせながら、それと同じくらい表現の意図と楽器的手段の間にバランスをとるポリーニの能力を、明らかにするものだった。人を喜ばせる膨張を取り去り音楽的な純化をするように、鮮明で規則正しいタッチのみならずクッキリしたフレージングが、それに寄与していた。
これらすべては、ショパンを抑制のないロマン主義の厚顔な提唱者と見たがる伝統に逆らって行くように思われる。が、これは正しくない。演奏の本質はむしろ楽譜の核心にまで導く分析の意義において理解されねばならない。それは同化され、解釈され、そして知的プロセスを感じさせることなく、説得力ある非凡な正常さとして、聴衆に示されるべきなのだ。こうしてヴィルトゥオーソ的な作品もその場を得る。スケルツォにみられるように、ポリーニは単純な連打にも響きの豊かさを創り出すことができる、それは深い所で完成した行程を、多くの面に描かれた肖像を思わせるようだ。
ショパン、ポリーニの若き日の愛は、ここまで、新たな探求への意志から活力を与えられてきた。
一方、ドビュッシーの前奏曲集第2巻には、決定的な発見の味わいがある。見たところはより緻密で、念入りにされ、また私的と見えるかもしれない、また恐らくそうだろう。確かにキズのない完璧さを授けられ、もはや進行途上ではなく、鑑賞の基準点とされるほどである。
確かに20世紀の歴史の乾燥感を持ち、個々のスケッチを喚起する力は、最高のテクニックを厳しく適用して生じたものと思われる。最後に、格別な演奏において、ヒントが詰まった音楽的宇宙の魅惑的な終末がもたらされる、そこではムソルグスキーとジャズが、シェーンベルクと印象主義が同居しているのだ。
ポリーニは一種の建築への賞賛の辞に署名する、が、演奏を空疎な様式の練習へと変えはしない。物語の結末を呼びさます一節を目立たせ、決して「使用上の注意」などのようにはしない。もちろん理念を超えて、その流儀は魅惑的だ:筋肉のコントロールのもたらす音色の精選は、額縁にはめておきたい程(「花火」を思う)。それからしばしばあるパウゼの効果、その表層の下に再始動の真の瞬間があり、今にも爆発しそうな衝動の震えが感じられる、爆発、それはまず楽音で、それから喝采で、ホールを満たすのである。(Stefano Valanzuolo, Il Mattino 2003/10/29)

アンコールは、ショパンのバラードとノクターン、ドビュッシーの前奏曲集第1巻から2曲でした。 東京でのショパン、ドビュッシーでも窺えたことですが、マエストロ・ポリーニ、ご自分の道をますます究めていらっしゃるようですね。

11月はドイツとスイスのリサイタル。10日、シュトゥットガルトの曲目をスケジュール表に載せました。DGのVenue Infoでは会場がGustav-Siegle Hausとなっていますが、これは座席500程の古い小さなホール。LiederhalleのHP、主催団体のHPにもベートーヴェンザールとなっていますから、こちらが正解と思います。
スイスのリサイタルは、2月にキャンセルになった分の延期公演でしょうか、律儀なマエストロですネ。詳細などまだ判りませんが、その時の曲目かとも思われます。

ところで「ナポリのめぐみ」って? 近頃私のお気に入りのパンの名前です。トマト味にバジルが効いて、スライスして焼くと中のチーズがトロ〜リとして、とっても美味しいの(^_^)

2003年11月3日 00時47分

今年の秋は、落ち着いて
爽やかな秋晴れが続いています。やっと天候も落ち着いてきて、暑すぎず寒すぎず、皆様も秋の日を楽しんでいらっしゃるでしょうか。去年の今頃を思い出して感慨に耽っている方、いませんか?

日頃の運動不足を解消しようと、私は散歩(ウォーキングとは言えない)にいそしんでいます。この季節、空気の中にキンモクセイの香りが漂っているのが、嬉しいですね。高い空、カラッとした空気に暖かい陽射し、金木犀・・・秋っていいなぁ、と思う時です。
そしてもちろん秋は、音楽も心にしっとり染み透ってくるような気がします。今、心惹かれているのは、ベートーヴェンの「6つのバガテルop.126」(ラジオからの録音)。小さな曲の素朴さ、平明さの中に、純粋な美しさが潜み、そっと光を発しているかのようです。作曲家晩年の作品と秋の風情を結びつけるのは、ちょっと単純過ぎるかもしれませんが、集大成ともいうべき大樹のような曲に取組んでいたベートーヴェンが、ふと野辺の花に目をやって微笑むような、あるいは大きな花束をまとめた後に、こぼれ落ちた小さな花をそっと拾い上げたような、優しさの感じられる曲ですね。
ポリーニの演奏は真摯な中に、作曲者の心に寄り添うような温かみのある、聴くものの胸にまっ直ぐに響いてくる演奏です。

9月にはレコーディングを行ったマエストロ。ファン待望の「悲愴」は、いつリリースされるのでしょう、楽しい夢がふくらみます。
10月はベルリン・フィルとの共演で今シーズンの演奏会活動を始められましたが、これも無事に行われているようで、一安心。
無事、というのは、指揮者のサヴァリッシュ氏の体調が心配だったからです。8月に80歳の誕生日を迎えた巨匠は、高血圧(多分)のため入院し、いくつかの公演はキャンセルになっていました。今回はお元気で登場し、ハンス・フォン・ビューロー・メダルという最高の栄誉を受け、それに応えて素晴らしい演奏となったようです。「モニュメント」といわれるような、シューマンの交響曲第4番。
批評の殆んどがその詳細らしく(飛ばしました^^;)、ポリーニについては最後にほんの少しだけ。
「彼はベートーヴェンの最後の協奏曲を、大きな、円熟した(渾然たる)流儀で演奏した、あたかも十本の指のすべてによって、永遠の郵便料を払い済みのように。」(Berliner Morgenpost)
よく判らない?(^^;)?比喩です、が、きっと聴衆に時空を忘れさせるような、雄大な演奏だったのではないでしょうか。そして永く心に残る感動を与えたことでしょう。

さてこの度「ディスコグラフィー」の一部をUPしました。まずはモーツァルトとベートーヴェン(だけ)です。
ズーッと前から作ろう、作ろうと思いながら、どこから手を付けていいか判らず、半ば諦めていたのですが、少しずつでも前に進もうと、現実路線を取ることにしたのです。
かなり以前の録音は、いろいろのバージョンがあり、型番もいくつもあるようですが、現在入手しやすい(と思う)ものを載せました。また写真は手持ちのジャケットを主にしたので、今では売られていないものもあるかもしれません。いろいろと不備なディスコグラフィーですので、お気づきの点などご指摘ください。

2003年10月6日 23時32分

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