時々の雑記帳

音楽のこと、ポリーニのこと、日々の雑感を、
時々(気まぐれに)、書き入れます。

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これ以前の日記帳はこちらを、すぐ前のものは「夏」7〜9月を、次のものは「冬」1〜3月ご覧ください。

(10月〜12月)

一生の宝物となる年でした
今年もいよいよあと1日を残すのみとなりました。お忙しい時をお過ごしのことと思います。
2002年、皆様にとってはどんな年でしたか、私にとっては・・・今さら、お尋ねするのも言うのも、必要のない特別な年、かも知れませんね。
期待を膨らませながら過ごした10ヶ月、興奮と感動を味わった1ヶ月、余韻を噛みしめる1ヶ月・・・。

「ポリーニ・プロジェクト 2002 in 東京」の記録を今年中に整理しようと思い、この数日、いろいろ見たり、読んだり、聴いたりしました。私達ファンにとってのみならず、日本の音楽界にとって、どんなに貴重なものであったかと、改めて感じています。そしてマエストロご自身にとっても、大きな価値あるプロジェクトだったことと思います。ザルツブルクで種を蒔き、ニューヨークで育てたプロジェクトが、一つの大きな花を咲かせた・・・そんな感じかもしれません。そしてこれからもローマで開き、さらにどこかで実を結ぶ、その一地点に東京という土壌があったということは、日本のファンとしても、嬉しい思いです。マエストロの選んだその土壌をさらに豊かにし、残してくれた花の種を育てられるように、一音楽ファンとしても、心して音楽に接していこうと思っています。

皆様からゲストブックに寄せられたプロジェクトのご感想を、コンテンツに組入れました。全てを掲載したのではないので、前後の文の関係が不明な点もいくつかあります。1回のご投稿を分割して載せたものもあります。また読みやすいように句読点を入れ、改行を変え、誤変換を訂正したところもいくつかあります。どうぞご了承ください。それ以外はほぼ、元の文をそのまま使わせていただきました。どうもありがとうございました。

一年間、このWie aus der Ferneにお訪ねいただき、ありがとうございました。
皆様のご意見、ご感想をいただき、ポリーニへの思いをさらに深め、ともに温めて参りました。
どなたかがお読みになって、共感してくれると嬉しいなぁと思いつつ、文を書きました。
また、どなたかに、なに言ってるの!? と笑わ(怒ら)れないよう、気をつけました・・・(が、成功したか、どうか)。
どうぞこれからも、率直なご意見、楽しいご感想、素敵なお知らせを、お寄せください。
来年もよろしくお願いいたします。

世界で、日本で、また個人の周りで、楽しいことばかりではなく、厳しいことも悲しいことも、いろいろあった年でした。
来年はどんな年になるのでしょう・・・。
平和な、喜びの多い年になるよう、祈りつつ、日記を閉じます。
皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。

2002年12月30日 13時57分

もう、雪の上の足跡・・・
窓を開けたら真っ白の雪景色?! まだ12月の上旬なのに、昨日まで銀杏の落葉で暖かい黄色に彩られていたというのに・・・一挙に真冬になってしまった街並に、寒さも一段と身に染みます。
ポリーニ・プロジェクトが終ってしまって、余韻を保ったまま待望したTV放映も終ってしまって(感動を新たにしました!)、もう今年はオシマイ、みたいな気分ですが、年末に向けてやらなきゃならないことも一杯。寒さに負けずに頑張って、忘年会、クリスマスetc.も楽しみましょう。というわけで(?)クリスマスの飾り付けにしてみました。

今回の更新は、「バイオグラフィ」の2002年を記載、スケジュール表にも少し予定を付け加えました。
プロジェクト後の整理としては「日本におけるポリーニ」の「プログラム」「作曲家別曲目」「アンコール曲」を更新しました。「ポリーニ・プロジェクト」の記録(ゲストブックのコンテンツ化)はもう少し時間をかけて行ないたいと思います。
また「プログラム」と「アンコール曲目」には、1974年について新たな情報があり、修正と記載をしました。初来日時、福岡・大阪ではBプログラムとなっていましたが、大阪のリサイタルをお聴きになった方から「クライスレリアーナ」が「さすらい人幻想曲」に変更された、つまり東京と同じAプログラムが演奏されたとのお知らせをいただきました。「確か、福岡も同様だったと思います」とのことで、両公演をAプロに移し、大阪のアンコールを新たに記載しました。貴重な情報をお寄せくださった岡本様、どうもありがとうございました。
Bプロは「幻のプログラム」になってしまいますが、ポリーニがこういうプログラムも予定していたということは、やはり興味深いので、残しておきたいと思います。

マエストロは14日にトリノ、16日にはパリでリサイタル。21日はローマで、サンタ・チェチーリア管弦楽団の本拠地となるParco della Musica大ホールの柿落とし演奏会です。現代作曲家の合唱曲3曲、ベートーヴェン「合唱幻想曲」、ストラヴィンスキー「春の祭典」というプログラム。チョン・ミュンフンとの共演も、きっと熱くなりそうですね。この演奏会はRAIのRadio3でライブ中継されます。夜8時から・・・日本時間は22日午前4時、寒そうですね〜。でも、連休だし、ガンバリマスか!?

http://www.radio.rai.it/radio3/

2002年12月10日 00時23分

秋の日のピアノの囁きの…
1週間が経ち、いつもの平凡な日常生活に戻りました。「祭りの後」の虚脱感はまだ有るけれど、より大きな満足感がそれを覆っているような感じです。
22日のリサイタル後は、心も神経も過飽和状態。何の音楽も耳に入れたくない、ポリーニのCDさえも、という感じでした。しばらく経って、やはり音楽を身近に欲しくなり、モーツァルトの協奏曲など聴きました。癒しと希望。それから今は、またショパンを聴いています。ノクターン、前奏曲・・・74年の演奏は、やはり素晴らしい、でも、22日はまた特別に素晴らしかった、と思いながら。
12月1日にはまた、この感動を味わえるのですね。

プロジェクトが終わったら、整理することが沢山ある、更新しなくては・・・と思っていましたが、月曜日、突然インターネットに接続できなくなりました。しばしパニック。ネット依存症の重症度は反省するものの、とにかく不便! 2日後に回復しました(些細な原因でした^^;;)が、アタフタしたので、更新はちょっと遅れそう。
でも、皆さまに早くお知らせしたい情報もあったので、今回スケジュール表の更新をしました。
2003年の演奏会予定にウィーンとザルツブルクを追加、村上様、お知らせありがとうございました。
プロジェクトのTV放送予定(BSも有ります!)、CDの発売予定等も載せました。
でも、なによりもお知らせしたかったのは、スケジュール表にはありませんが・・・
「2004年、ポリーニ来日!」のビッグ・ニュースです。
ある方がマエストロご本人から伺ったお話で、「リサイタル」で「東京以外の場所でも開きたい」と考えていらっしゃるとか。
詳細はこれから決めてゆくということで、本当にホットなニュースです。
春かしら、秋かしら、どこで開かれるのかしら・・・と思いを巡らし、マエストロ帰国後の寂しさも少し薄れました。
皆さま、希望を新たに、またポリーニ貯金に励みましょう!
お知らせ頂いた○○○様、本当にありがとうございました!m(_ _)m

マエストロは今頃、ミラノのご自宅で寛いでいらっしゃることでしょう。1ヶ月の日本滞在でお疲れとは思いますが、プロジェクトの成功に満足していらっしゃる(梶本のHPにメッセージと写真があります)ご様子なのは、私たち日本のファンにとって嬉しいことですね。
12月は1日にミラノでリサイタル。ブラームスの間奏曲Op.117で始まる素敵なプログラムです。これは、VIDASという医療ボランティア組織(ホスピス等を運営)のために行なわれるようです。
また、14日のトリノのリサイタルはFAIという環境保護団体のためのもの。
「音楽を通じて社会的活動も行ないます」と語るポリーニ、大きな存在感を以って社会に貢献 される、温かいお人柄と熱い使命感、やはり偉大なマエストロですね。

2002年11月28日 16時56分

フィナーレ:11月22日
とうとうこの日がやって来た。一番楽しみにしていた演奏会。でも、迎えたくない終りの日。
このプロジェクトを知った日、1年半前から開始までの長かったこと、そして始まってから今日までの短かかったこと。いや、迎えたくないのは明日だ。今日はフィナーレ、最高に楽しい日のはず。そして長い1ヶ月を日本で過ごされたマエストロに、感謝して、お別れしなければ。
サントリー・ホールは、これまでよりも女性客が多いせいか華やいだ雰囲気、ショパンとドビュッシーというプログラムに期待感も高まっている。ノクターンOp.32の2曲の追加と、12月1日の放映予定が告示されている。

いつものように長い静寂、そして10分を過ぎたころ、いよいよ暗くなり、ピアノの周囲のみが明るく、早足でポリーニが登場、座るやいなや弾き始める。
ノクターンOp.32-1。美しい音で、優しい曲想が流れ出る。あぁ、やっぱりポリーニのショパンはいいなぁ、としみじみ思う。2曲目の愛らしい旋律も細やかに奏される。だが、表面的なロマンティックさでなく、詩情豊かな、深みのあるノクターンだった。
大曲「24の前奏曲」に取組む前に、軽く2曲、という感じの追加だが、ポリーニの真摯さはいつもと少しも変らない。

「24の前奏曲集」をポリーニは1曲ずつ、ではなく1連の曲集として弾く。曲と曲の間は殆んど無く、次々と、短い、凝縮された曲が、だが曲想の対比は鮮やかに、奏される。その緊張感は息詰まるほどだ。
やや淡々と弾き始めたポリーニだが、7曲目アンダンティーノを優しく弾き終えたころから次第に集中度を増したようだった。「雨だれ」は明るい雨、心は深く沈みこんでゆくが感傷的ではなく、強さのある曲。続く16曲目の凄かったこと。息もつかせぬ速さの中に激しい感情が爆発する。と、すぐに次の曲の穏やかなフレーズが弾き出される・・・。
20曲目の前に少し間が置かれただろうか、荘重な和音と繊細な音の交替する曲に、深い精神性が込められる。そして最後の曲に総ての力が注ぎ込まれる。嵐のようなパッセージ、低音が体の芯に響き、悲鳴のような高音は心に刺さってくる。重い大きい最後の音の響き。なんという音楽! なんという演奏!
ブラヴォーと言う意外に言葉を知らない。ショパンという天才の測り知れない大きさを、全身全霊を尽くして演奏しきったポリーニ、どれだけ拍手をしても、この感動と感謝を伝えきれない。

ドビュッシー「前奏曲集第2巻」は、最新のレパートリーの日本初の演奏、期待感に好奇心が入り交じる。ミケランジェリ盤で一通り予習したものの、あまり曲を聴きなれてはいない。1曲1曲、神経を集中して聴こう。
「霧」がはじまる。鍵盤上を軽やかに撫でるような指先から生まれる微妙なニュアンス。霧の中に時折見え隠れする形の鮮やかさ。「ヒースの茂る荒れ地」の優しい抒情性。「風変りなラヴィーヌ将軍」は、ポリーニの演奏を洒落っ気に欠けるという批評もあるようだが、解説にある『ドビュッシー特有の辛辣なユーモア』の表れた演奏だった。一息おいて「月光の降りそそぐテラス」の静かな美しさ。
12の曲を、ポリーニは全く別個の個性ある作品として、音をもって描き出してゆく。多彩なタッチと音色で、一つ一つ、存在感のある多様な曲を。「交替する3度」の技巧の妙、そして最後の「花火」は、もう圧巻としか言いようが無い。目の前で繰り広げられる演奏の光景に、気を失いそうな思いで見入り、聴き入っていた。ポリーニはこの曲に総てをかけたのだろう、透徹した目で、研ぎ澄まされた感性で、細心の心で、超絶的技巧で、全てのエネルギーを注ぎ込まれた音楽。その美しさと偉容に、魂を奪われていた・・・。

ブラヴォーと熱狂的拍手の嵐。ポリーニは律儀に全方向に礼をする。花束を捧げる女性達、握手を返すマエストロ。満ち足りた、優しい笑顔。やっぱりポリーニには花束が似合う。
アンコールは「沈める寺」、素敵な選曲だ。次に「西風の見たもの」が奏される。凄い演奏に、一層の拍手。どんなにお疲れか、と思うが、拍手を止めることは出来ない。「バラード第1番」には驚きと嬉しさで幸福感を味わった。素晴らしい演奏。もう充分ですマエストロ、でも、拍手は贈らせてください。気軽な感じでもう1曲、ノクターン第8番。彼のお気に入りのアンコール曲、これで終わりですね、マエストロ。味わい深く聴く。だが、さらに「革命」が、熱く激しく奏された。しんみりした終わり方など欲しないかのように。
プロジェクトの最終夜、長かった1ヶ月。ポリーニのこの企画に賭けた思いの大きさと、成功への満足感を、ともに確かめた、そんな終わり方だった。

場内が明るくなり、聴衆も席を立つ、が、拍手は鳴り止まない。私も1階に降り、舞台近くへと急ぐ。ポリーニは三度登場してくれた。お疲れなのに、ありがとうございました、マエストロ。間近でお顔を見て、なお満足です。これからのマエストロの「不在」を、なんとか乗り切っていきます。Bravo! Grazie! と叫んだけれど、聴こえたでしょうか。

終演後、ロビーは興奮した聴衆が、立ち去り難い思いで、話し合い、感想を書いている。私も家で書いてきた感想文を提出する。マエストロが読んでくださるというが、音楽事務所で訳してくれるのだろう。この稀有のプロジェクトを現実のものにしてくれた梶本音楽事務所さん、心から感謝いたします。スタッフの方々の大きな努力と日々の細心な働き、最後まで本当にお疲れさまでした。

ホールの外で、このプロジェクトを通じて知り合った方々とご挨拶する。ナミコさん、ズーさん、エチュードさん、ひろこさん、あゆみさん、Arthurさん、そして今日はおじさん様も加わってくださって、いろいろ貴重なお話をうかがえた。皆さん、興奮と満足の笑顔、でも、終わってしまった寂しさを一様に感じながら。
また、きっと、お会いしましょうね、ポリーニを聴く喜びを、ともに分かち合いましょう。
どうもありがとうございました。

2002年11月24日 13時34分

第8夜・11月18日
ポリーニの「皇帝」。こんなに曲とピアニストのイメージがピッタリくる組合わせがあるだろうか。 世界各地で、またCDやビデオで名演を残しているこの曲を、初めて日本で、シャイー指揮の名門コンセルト・ヘボウ管弦楽団とともに演奏する。今日は第1夜に勝るとも劣らない、期待一杯の協奏曲の演奏会だ。

前半は現代曲を3曲。武満徹の「弦楽のためのレクイエム」は、静かな響きの曲だ。緩やかな波のように揺れる弦の音が、心に染み入ってくる。柔らかい音色の弦。これがシャープで突きつめた音色で奏されたら、たまらなく厳しい音楽になるのだろうと思う。ヨーロッパの古いオーケストラのもつ音色の深さに、温かみを感じた。

ベリオ「レクイエス」は平安を祈る曲だという。単音から始まって、ゆったりした、「旋律」とは意識し難い音の線をめぐって、幾つもの管や弦の動きが加わり、厚みのある音の層を繰り広げていく。捉えにくい曲で、ついトロッとしてしまった。

リゲティ「ロンターノ」も不思議な曲だった。遠い宇宙空間の薄明の中に、弱く、時に強く、流れる光の帯・・・。声楽で聴いた「ルクス・エテルナ」を思わせる響き。日本的な、或はプリミティブな音階や響きも聴こえる。どの楽器が鳴っているのか、よく判らない音も響いてくる。最後は低弦のpianississimoが長く持続して、そして無音。音の「有」と「無」の差をこんなに意識したのは初めてだ。深みのある音色の、緻密なアンサンブル。だが、重苦しさも、張り詰め過ぎとも感じないのは、シャイーの指揮の柔らかさ、明るさにあるのだろうか。後ろから見る指揮姿は、しなやかで、時に落っこちないかと心配なくらい活発で、表情豊かだった。

さあ、いよいよ「皇帝」がはじまる。ポリーニが出てきた瞬間から、もうドキドキしてしまう。2列前にファブリーニ氏とポリーニ夫人。マエストロの演奏活動を支えるお二人が、ゆったりした風情で拍手している。そう、私も心を落ち着けて、無心に聴こう。お願いします、マエストロ。
開始の重厚な和音に続いて、ピアノのカデンツァが華麗に響き渡る。美しい音、キラキラ輝いているポリーニの音だ。やや早めのテンポで、指は鮮やかに鍵盤上を走る。次いでオーケストラのみの部分になると、なんとポリーニは曲に合わせ体を動かしている。弾き振りのように体全体で曲想を表している。こんなポリーニを見るのは初めてだ。ノっているのか、曲に没入しているのか、表現意欲の大きさが、体を突き動かすのだろうか。
オーケストラの音量に負けない力強いピアノ。生き生きしたものが彼の全身から発されて、熱いものが伝わってくる。一心に音楽に向かい合い、全力を尽くして演奏して、楽しそうなマエストロ。時々、テンポが早まってしまうのは、昂揚から? 
オーケストラは上手く合わせ、時に補正して、バランスを取っている。その音はベートーヴェンに相応しい重みと力感を持っている。やはりヨーロッパの伝統あるオーケストラだと思わされる。けれどまたポリーニの気迫溢れる躍動感に、ピタリと合わせているのは、若いシャイーのイタリア気質だろうか。
第2楽章は、もう少しゆっくり歌って欲しいような部分もあったけれど、第3楽章では早めのテンポが推進力に溢れた音楽となり、圧倒的なフィナーレを迎えた。 素晴らしい名演。おそらく二度と聴くことのできない、もしかしたら、演奏者達も二度と生み出せない名演ではないかと思った。

大きな、堂々とした、華麗な「皇帝」。この名前は確かにその風格と力強さで、協奏曲における「皇帝」に相応しいように思う。だが、ポリーニはプログラムの対談で、この標題が誤りであり、曲に篭められた感情についての間違ったイメージを与える、と言っている。ベートーヴェンはむしろ皇帝に反対の立場であり、「もし皇帝に反対する協奏曲があるとすれば、それはまさに'第5番'であって、圧制者に反対する自由の勝利の感情を表明しているはずのものだからです」と。
「もし・・・すれば」とポリーニも仮定するように、ベートーヴェンが政治的主張から作曲したのではなく、より広く深い意味をこめた人類へのメッセージであることは明らかだろう。それは自由の勝利であり、進歩への希求、前進への鼓舞であり、また創造の喜びだろう。
ポリーニがプロジェクトにこの曲を入れたのも、そんな意味を込めたのではないだろうか。困難に立ち向かうこと、新しい道を切り開くこと、そうして喜びへと至ること。
そう思うと、ポリーニの演奏の様子もよく判る。彼は、まさに一瞬一瞬、全身全霊をもって音楽を創造しようとしたのだ。オーケストラと共に大きな曲の全てを創り出す、オーケストラのみの部分でも、ともに演奏していたのだ。そして協働の喜びが生まれ、ポリーニもシャイーもオーケストラも、楽しそうに活き活きと音楽を生み出していた。
繰り返される固い握手、オーケストラを称えるポリーニ、輝かしい笑顔。その喜びと昂揚を、聴衆もともに味わいました、マエストロ。Bravissimo!! Grazie!!

今日は開演前に、ゆうこさんにお目にかかれて、嬉しかった。みどり様、田村様、失礼致しました。
休憩時間には、おじさん様とご挨拶。8人で集い、珍しい楽譜や、プログラムを見せていただいた。
終演後には4人で感想など、おしゃべり。なんと充実した夕べ。皆様、ありがとうございました。

2002年11月20日 11時33分

第7夜・11月13日
一週間の休みをおいて、いよいよ、リサイタルの日。
ずっと種々の公演続きだったマエストロも、少しゆっくり休養されただろうか。11日には講演会が開かれ、プロジェクトの意義を熱く語り、日本の聴衆の感想にも喜んでいらしたとのこと。
あと3回の重要な公演、マエストロ自身が主役の公演を、お元気で、絶好調で迎えて欲しい。期待感が、祈りにも似た思いになっている。

舞台上にはいつものように50人の学生席。この形態はロンドンでは格安の若者席として、ポリーニに限らずバレンボイム、内田光子さんも取り入れているようだ。巨匠の演奏に間近に接することが、若い音楽ファンや学生にとってどんなに意義あることか。次の世代に音楽を継承していこうとする、開かれた意識を持った彼らの使命感に、心打たれる。
10分ほど遅れて、大きな拍手の中、ポリーニはしっかりした足どりで登場、座るやいなや弾きはじめた。
ブラームスの幻想曲Op.116、第1曲カプリツィオが、フォルテで激しく奏される。派手やかとも、アグレッシブとも思える演奏に、アレ?と思う。この曲集を私はケンプ盤で予習していて、秋の木漏れ日のような、というイメージを持っていた。
2曲目インテルメッツォは穏やかな美しい響きだ。静寂の中に密かな温もり。4〜6曲も心に染み入るようだ。ポリーニはブラームスの作品に秘められた情感をしっかりと捉えている。
だが、晩年といっても59歳のブラームスに、人生の秋、老い、諦観、寂寥、枯淡ばかり求めるのは、一面的すぎるのかもしれない。名曲クラリネット5重奏曲Op.115を書いた時期、甦った創作意欲から生まれた作品であれば、もっと別な見方もできるはずだ。そしてポリーニは確かにこの曲に未来に受け継がれるべきものを見ているのだ。
そう思うと、このブラームス演奏に今のポリーニの姿が重なる。60年という年月を経て、豊かな内面、深い情感を得て、しかし尚、過去への安住を拒み、前へと進み続けるマエストロの姿が。

ウェーベルンの変奏曲は精緻な音の抽象絵画。集中してその線や色合いを味合おう。
今回は2階席左側で、ポリーニのやや後ろから横顔と、右手、鍵盤全体がよく見える。第2楽章ではオペラグラスで手の動きを見る。凄まじい動きに圧倒される。音についていえば、この席では一音一音がとても澄んだ美しい音に思えた。

圧巻はシュトックハウゼンのピアノ曲。特に9番に魅せられてしまった。連打される和音の不思議な響き、次第にディミヌエンドされていく絶妙さ。高音部の、ピアノという楽器を超えたような音、煌めき、飛散する音の光。音楽における深い意味など判らないままに、惹きつけられてしまった。
もう一度聴きたい、と思った。マエストロ、録音をお願いします。いえ、やはりライブが聴きたい、また日本で、弾いて下さい。
・・・これは、麻薬だろうか。いや、マエストロの言う「強い表現力」を実感したのであり、それを実現した卓越した演奏を体験したのだった。

休憩後は、待ちに待ったベートーヴェンのソナタ。
24番の旋律が美しく流れ出る。緊張して聴き始めたのだが、あぁ、良いなぁ、と心が安らいでいく。いくつかのミスタッチも、気にならない。第2楽章はちょっと早過ぎる気もしたが、ポリーニがノっているのなら、いいでしょう。
「熱情」の素晴らしさは、なんと言い表せば良いのだろう。静かに置かれた指から生まれた最初の一音から、最後の嵐のような熱いパッセージまで、完全に惹き込まれていた。強弱の対比は極めて自然に感じられ、音楽が生きて自ずから成長していくようだ。激しい部分はスリリングさに息を呑み、歌の流れは胸のうちでともに歌った。
現在のポリーニが到達した「完璧な『熱情』の世界」に、ホール中が包まれているような感じがした。大きく、深く、ゆるぎない、そして温かい世界。パーフェクトですね、マエストロ。

アンコールはバガテルOp.126-3、興奮を静めるには短かすぎる。次いでOp.126-4。でも、これで終るのはちょっと落ち着かない、86年のように、シューベルトの小品など聴きたい・・・と思っていたら、もう1曲。マエストロの落ち着いた声で「シェーンベルク、6つのピアノ小品Op.19」と告げられる。あぁ、なるほど! プロジェクト・ポリーニらしい選曲の、見事な締めくくり方だった。

十二分に満足してホールを出る。今夜は寒い、と言われていたのに、熱気でまだ暑いほどだ。
初対面のArthurさん、ひろこさん、かずこさん、ナミコさん、ズーさんと私、6人で感想など語り合った。一人では持て余しそうな感情を少し落ち着かせて、心楽しく家路に着く。ありがとうございました。

2002年11月15日 22時05分

第6夜・11月6日
今回からは声楽を離れ、器楽奏者との共演だ。ポリーニ本来の活躍分野に近づくわけだが、室内楽はやはり聴く機会が少なかった。
「室内楽は音楽の精髄」と高く位置づけ、愛好している音楽を、一流の、そして親しい音楽仲間と演奏するのは、ポリーニにとっても大きな喜びだろう。その姿を見るのも、もちろん聴くのも楽しみだった。
プログラムは現代音楽とモーツァルトを、前半に管楽器、後半は弦楽器と組合わせての演奏、巧みなプログラミングだ。

室内楽はこじんまりした紀尾井ホールで聴きたかったが、サントリーホールは、今日はほぼ満員で、 聴衆の大きな期待感を物語るようだ。私のすぐ前にポリーニ夫人とファブリーニ氏。
第1曲はリゲティ「木管五重奏のための10の小品」。アンサンブル・ウィーン=ベルリンは文字通りウィーンフィルやベルリンフィルの現・元奏者による名人グループ、贅沢な音を期待する。
だが曲の初めから、驚かされる。音合せをしているのかと思った、しかも少し音程の狂った楽器で。それからクラリネット、フルートと、一つずつ楽器が活躍したり、また全奏になったりと、短い曲が次々と奏される。
解説を見ながら、必死に目と耳で確かめる。8曲目「揺らめくような音型を重ねて音響の輪郭をぼかす」なるほど。9曲目「超高音域で微妙な音程のズレを発生させ・・・」「独特の効果」は耳にビシビシと訴えてくる。見事なアンサンブルだ。10曲目が終わり少しの休止と静寂。ホッとして拍手するが、やはり現代音楽は苦手・・・と思わされる。

第2曲のクルターク「木管五重奏曲」も短い曲を8曲、連続して演奏する。どうせ判らないのだから気楽に聴こう、と思ったせいか、少し耳が慣れてきたのか、聴きやすいような気もする。5曲目、8曲目など各楽器の対比ある動きが面白い。だがやはり、終わるとホッとする。

もっと管楽器の美しい音色やハーモニーを楽しみたい、との切なる願いは、モーツァルトで満たされた。
ピアノが中央奥に置かれ、前にオーボエ、ファゴット、ホルン、クラリネットが並ぶ。
ポリーニの横顔がかろうじて見え、時々は、全身で音楽にのり、リズムを取っている様子が垣間見える。そして彼の声もかすかに聞こえてくる。
美しい管の音色、晴れやかな響きを楽しみながら、それを支え、リードするポリーニのピアノの巧みさを思った。管楽器奏者を立て、最上の音楽を引き出しつつ、曲全体を引き締めている、主役はやはりポリーニだ。細かいパッセージの玉を転がすような音、管とやりとりする機知に富んだ音、管に負けず歌っている優しい音。時には挑むような音、全体を支える力強い音。
大らかな曲の楽しい演奏、だが、一流の奏者達による、真剣そのものの演奏だった。
盛大な拍手に応えて、アンコールは第3楽章をもう一度。さっきよりやや早めのテンポで、生き生きと演奏され、聴く楽しさもひとしおだった。

休憩後はまず、アッカルド独奏のシャリーノの曲。弱音で奏される特殊な奏法と響きの曲だった。 耳に神経を集中するようにして聴く、が、ヴァイオリンの音色の美しさとは、まるで異質な音楽だ。
超絶技巧の演奏に、大喝采が起る。ポリーニ夫人も「ブラヴォー!」と叫んでいる。感性的について行けない疎外感を味わいながら、アッカルドの演奏には心から拍手を送った。「パガニーニの再来」といわれたアッカルド、華麗な音色のヴィルトゥオーゾ、のイメージを描きがちだが、現代的な、醒めた、学究的な面も併せ持つ音楽家だった。

そのアッカルド率いる四重奏団の演奏で、シャリーノ「6つの小四重奏曲」。1曲1曲、解説を見ながら聴いていくが、途中でトロッとしてもいた。チェロの高音での特殊な奏法と響き、ヴァイオリンの微妙な音色など、視・聴覚的に面白い面もあったが、聞き終わって、フーッと疲れを感じる。

時間はもう9時、5分ほどの間を置いて、いよいよモーツァルトの「ピアノ四重奏曲第1番」だ。 この曲を生で聴けるのを、どんなに待ち望んでいたことか。疲れなど、もう吹っ飛んでしまう。
前に3人の奏者なので、今度はポリーニの手も良く見える(アッカルドさん、少し椅子を下げて、と思ったら、そうしてくれた)。
軽やかなタッチ、優しい細やかな弾き方で、弦のつややかな音色に合せ、引き立て、支え、時にはその上で気持ちよさそうに歌っている、輝きのあるピアノ。
全体のアンサンブルは素晴らしく、リズム感も上々、表情のつけ方も絶妙で、生き生きした音楽が流れていく。弦楽器の3人も、真摯な中にも心から楽しそうに弾いている。
素晴らしいモーツァルト、至福の時。涙がこぼれそうです、マエストロ。
大喝采に応えて、第3楽章をもう一度。ありがとう、マエストロ、アッカルド四重奏団。

前半の奏者達に対してもそうだったが、ポリーニは共演者たちに拍手を送り、感謝を表している。謙虚なマエストロ。彼らの参加がこのプロジェクトを盛り上げているのは確かだ。聴衆も彼らに惜しみない拍手を送っている。でもすべてが、マエストロ、あなたがいらしてこそなのです。一層の拍手を、前を向いて賞賛に応えるポリーニに送った。

サントリー・ホールという大きなホールで室内楽を演奏することに、少し疑問ももっていた。だが聴き終わって、なにか「大きい音楽」を聴いたような感覚がある。そして、より多くの聴衆でこの幸せな時を共有できたことに、温かさを感じたのだった。

2002年11月8日 13時27分

第5夜・11月4日
明るい大ホールにホルンの晴れやかな音。プレ・コンサートはまばらな観客を前に始まった。プロジェクトに対しては、つい肩に力が入った聴き方をしてしまうが、今はリラックスして温かい音色を味合おう。モーツァルトとニコライの曲を楽しんで、終わるころには客席も大分埋まり、二人のホルン奏者に感謝の拍手を送った。

サントリーホールはやはり大きい。客席も初めのうち少し空席が目についた。私の左前方にマンゾーニ氏が座っている。ポリーニ夫人とファブリーニ氏が隣に着席。すぐ前にリッパート氏、横のほうにバンゼさんが座る。
舞台上には大きな弧を描いた合唱団、前にホルン2人とハープ。合唱団の声の迫力は紀尾井ホールの時より少し薄らいだような気がするが、ホルンとハープの音と一緒になって、柔らかな女声が美しい。短い4曲が次々と歌われる。初めて聴くブラームスの合唱曲だが、素朴で、なぜか懐かしい思いにとらわれる。
次に混声合唱の5つの歌。夜の想い、老いの寂しさ、秋の情緒、まさにブラームスの世界が、透明感のある声で歌われ、心に染み入ってくる。

4つの四重唱曲はポリーニのピアノ伴奏だ。ステージ左寄りに斜めにピアノが置かれる。私の席からは右手が良く見える。軽やかに動き、細やかに夜の情緒を描きだすその音色が美しい。紀尾井ホールでのシューベルトで聴かれたような表出性よりは、控えめに、合唱を支えるという感じだったが、要所でのピアノの響きにやはり耳を奪われる。4曲目は力強い和音で開始するゲーテの詩につけた曲。メランコリーなロマン派の詩につけた曲とは趣の異なる、大らかさがある。ゲーテという大詩人の個性によるのだろうか。

休憩後、会場の照明が明るいままに演奏者、指揮者も登場し、すぐにも演奏が始まりそうだ。次第に客席も暗くなったが、不意に舞台が真っ暗になり、闇の中、左右から能装束に面をかざした男女が静かに進んでくる。青い布を敷いた台の上に面を載せ、マンツォーニ「影の横糸」が始まった。
ソプラノ、レッジェーロ・テノールと合唱、そしてアンサンブル・ノマドにハープは吉野直子さん。
バラインスキーは情念のこもった声という感じのソプラノ。ラッザーラは若々しさを感じさせるカウンター・テナー。幽界の薄闇の情景が合唱によって歌われ、打楽器が効果的に使われてドラマ性を高める。和楽器を使っていないにも拘らず、管と弦が不思議な奏法と音色で、能楽を思わせる響き、異次元を漂うような響きを出していた。内容的には能「錦木」を知らず、音楽的にも詳しいことは判らないが、しかしとても興味深かった。面白かった。
ザルツブルクでのポリーニ・プロジェクトの委嘱作品。彼の地ではどんな演出で披露されたのだろう。このプロジェクトの真中の日に、中軸として行われた日本初演は、大成功だったと思う。
盛大な拍手の中、オルトナーが作曲者マンゾーニを舞台に呼び、さらに拍手が湧く。背の高い、70歳には見えない、元気な紳士だった。

またピアノが運ばれ、シューマンの「女声のためのロマンス」。ドイツ・ロマン派のアイヒェンドルフ、メーリケらの詩につけた、抒情的で甘美な、だが悲哀を秘めた曲だ。1曲目はタンバリンを表す華やかな音で、ポリーニの軽やかなタッチが冴える。だがシューマンが曲につけた伴奏は、総じて控えめで、合唱に和音をつけながら静かに導き、寄り添っていく趣だ。「詩人の恋」などのピアノ・パートの充実を思って、少し寂しい。ポリーニのピアノをもう少し聴きたかった・・・。

最後のシューマン「二重合唱曲」は芸大クノスペンコーアが加わり大編成になる。蕾が開くようにと、若い日本の演奏者への教育効果も想定しただろうポリーニのプロジェクトだ。大ホールに壮麗に響く声の力。ここでもゲーテの詩につけた力強い曲が最後を飾った。

終了したのは9時半を過ぎていた。早々に席を立つ人もいるが、盛大な拍手は鳴りやまない。ポリーニの姿は客席にも舞台袖にも見えない。と、スタッフがピアノを動かし始めたのだ。アンコールが、ポリーニの伴奏で行われる!
「流浪の民」の前奏が力強く、華々しく始まった。ポリーニは生き生きと、楽しそうにピアノを弾いている。伴奏を付けているというよりは、共に楽しもうという感じだ。合唱(アーノルド・シェーンベルク合唱団のみ)も、独唱者も、思いっ切り歌っているようだ。2曲目は先に歌われたブラームス「ああ、美しい夜よ」だったのだが、私は初めて聴く曲だと思っていて、その美しい伴奏を楽しんだ。思いがけなく、素晴らしいプレゼントを貰ったように、嬉しかった。

アーノルト・シェーンベルク合唱団との三夜に渡る共演もこれで終る。ルネサンスから現代音楽まで広いレパートリーで、それぞれに素晴らしい音楽を聞かせてくれた。ポリーニの考えをよく理解し、プロジェクトを中核となって支えてくれた合唱団に、ポリーニは感謝と敬意を表したかったのだろう。そして自身も昂揚した気持ちで、共にピアノを弾きたかったのだろう。音楽家同士の美しい交歓を目の当たりにしたように思う。もちろん、聴衆の存在はそれを成り立たせる前提であり、ポリーニのアンコールはそれに応え、サービス心をもってなされたのだろう。「流浪の民」、楽しかったです、マエストロ! ありがとう、シェーンベルク合唱団!

2002年11月6日 01時03分

第4夜・10月31日
舞台の上、真ん中に、黒く光るグランドピアノが置かれている。ああ、今日もポリーニのピアノが聴ける、それもシューベルトの作品で、と思うと嬉しさが込み上げる。
まず合唱団が並び、ソリスト達が登場。体格と姿勢も良い歌手達と、長身のオルトナーの後から、ポリーニは「私は伴奏ですから」という風情で現われる。
しかし、曲が始まると、そのピアノの音色に一気に心を奪われる。星の煌めきのように、優しく清らかな音。合唱がピアノを伴奏するように、静かな夜の空気を醸しだし、テノールのリッパートの声が晴れやかに響く。「明るい夜」で始まったこの夜は、このプロジェクトで一番ロマンティックな一夜なのかもしれない。
ポリーニの伴奏は、曲のイメージを確固と持ち、隅々まで知り尽くし、他の演奏者と共感を交わしながらなされるものだった。表情豊かに、また繊細に弾きながら、歌手をリードし、支え、寄り添うように、励ますように。歌手たちもポリーニの伴奏に全幅の信頼を寄せ、感興をより高められて、美しい声の魅力を存分に発揮し、素晴らしい表現力で聴かせてくれた。
特に素晴らしかったのが4曲のミニョンの歌。ゲーテの詩にシューベルトが丹精こめてつけたという音楽は、より親しまれている連作リートよりも、その悩み、悲哀はさらに深く、憧れも一段と高みへと達しているようだ。ソプラノのユリアーネ・バンゼの歌が素晴らしかった。
ポリーニは真摯に、心憎いまでに細心の伴奏をつけながら、時には自身も口ずさみ、ともに音楽する喜びをも表しているようだった。

盛大な拍手とともに一旦みな退場。スタッフが忙しく会場を整備する。ポリーニの登場はここまで、 ピアノも隅に片づけられていくのを見るのが、少し寂しい。

次いで、弦楽合奏つきの男声合唱「水上の精霊の歌」は重く、暗い響きの歌だった。ゲーテの達観が、若くして死を迎えることになるシューベルトの諦観を誘ったのだろうか、まだ24才の若者の作品とは思えない。やはり詩のもつ力なのだろうか。
「詩篇」は晩年の作品だが、この祈りの音楽では、重さよりも天に向かう心、暗さよりも晴朗さが表れ、ゲーハーヘルの張りのあるバリトンの輝かしさもあって、美しい余韻のある演奏だった。

後半はすべて現代曲だ。苦手だが、もう、とにかく、聞くしかない。ポリーニが横手の席で一緒に聞いているのが励みとなる。

「ルクス・エテルナ」はCDで予習したのだが、生で聴くと不思議な魅力を感じる曲だった。永遠の光は薄明のようであり、さまざまな色合いの声が漂い、永遠の音のように流れ、異次元のような響きの場となる。「宇宙」の音とも、永遠を望む「祈り」の音楽とも思える。合唱の精度の高さに魅了される。

だが、クセナキス「夜」は、凄まじい衝撃だった。言葉は失われ音として、人の声もまた歌ではなく音として発せられる。阿鼻叫喚ともいえる響き。雑音、機械のような非人間的な音。暴力的な声。 「心臓が弱い人は・・・」と聞いてはいたが、手を握りしめ、耐えるように聞いた。これが音楽だろうか。マエストロ、この曲がお好きなのですか。だが、目前で繰り広げられているのは、確かに演奏だった。精密に測られ、緻密に合わされ、真剣そのものに、真摯に演奏されている音楽だった。こういう音楽もあるのだ、と思った。美しく、心地よく楽しく、安らぎをもたらすものだけが音楽ではない、と、とうに知っているはずだった。人間に纏わるすべて、その表現したいものを音で表わしたものが音楽であるなら、現実に激しい苦悶、苦痛が、怒りが、深い悲嘆が、絶望があるかぎり、こういう音楽もあるのだ。
そして「夜」というタイトルにこめられた、重い意味を考えさせられた。時代の深い闇は、今も世界中にあるのだから。しかし、もう、聴きたくはない。
演奏者たちに、その能力、技術の高さとともに、その精神力に対して、惜しみない拍手を送った。

合唱団がその名を戴いているシェーンベルクの曲が、最後を締めくくる。
十二音技法で書かれたという「深き淵より」は、不安な思いと、救いを希求する激しさを持っている。
最後の「地には平和を」は、より安らぎの感じられる曲で、やっと、ホッとして、合唱の美しさを味合うことができた。淡い光が射すような祈りの曲だ。本当に「Friede, Friede auf der Erde!」ですね、マエストロ。

ポリーニは演奏が終わっても席を立とうとせず、合唱団の最後の一人が舞台を去るまで、大きな拍手を送っていた。誠実なマエストロ。今日もまた、大きな思いの込められた音楽を聞かせて頂きました。感謝の気持ちで、後姿に拍手を送った。

2002年11月2日 17時00分

第3夜・10月28日
第3夜のメインは合唱曲。アーノルト・シェーンベルク合唱団の演奏は、素晴らしいの一語につきるものだった。
「声は一番美しい楽器」とポリーニが言う、「楽器」の意味がよく判る。鍛えられ、研ぎ澄まされ、強い精神力で自在に統御される「声」は、時には管楽器の音色を思わせ、総体としてパイプオルガンの響きを連想させ、そして勿論、柔らかく温もりある、心を表出する生身の人の声でもある。
オルトナーの熱い、表情豊かな指揮に従い、曲に込められた人間的な感情が表され、それは時代を超えたものと思わされるが、曲そのものも確かに「時代を超えたもの」と感じられるのだった。
マレンツィオの曲は、半音階進行が美しい、深い思いに次第に引き込まれるような2曲目、それから、愛の苦しみを激しく表現する4曲目が印象的だった。
ジェズアルドの曲は、不協和音や半音階が多く、より刺激的ともいえるものだが、注意力を込めて聴いていると、一音一音が強く訴えかけてくるように思った。ポリーニの話にあった「死ぬ(moro)」という言葉につけた音は、耳に少しザラつく感じの、蒼ざめた音。
テキスト(暗がりで時々見ていたが)を理解して聴けば、さらに強い感銘を受けただろうに、と思う。イタリアのプロジェクトでは、この点、ポリーニの思いがより良く理解されるのだろう。

不協和音も、半音階進行も、17世紀当時は斬新な、革命的な響きだったという。両刃の剣にもなりかねぬそれらを使用する欲求を生んだのが、詩に歌われる人間の苦悩、孤独、死だとしたら、不協和音も、半音階進行も当り前になった現代、私たちがその響きになお新鮮さを感じ、心惹かれるのは、何故なのだろう。
ノーノの曲をマレンツィオとジェズアルドの中にはめ込んだのは、現代の作品が時代を映し出しながら、また時代を超越するものであることを示したかったのだろう。
歌手たちがそれぞれ音叉を手に、音を確かめながら進めていく「春がきた」は、その精緻さに感嘆させられ、ソプラノの豊かな声も美しかったが、その厳しいありように気おされて、あまり音楽を「楽しむ」ことが出来なかった。
その「厳しさ=精神性」が威力を発揮したのが、パーカッションとともに歌われた「ディドーネの合唱」だった。音程のない打楽器の上に、高く低く、強くかすかに、自在に歌が流れ、壮大な音が会場を満たした。フィナーレの「海」を歌った、深い悲しみの表現が見事だった。

後半「…苦悩に満ちながらも晴朗な波…」。ポリーニのピアノが聴けた。素晴らしい音色で、今まで知らなかった曲の魅力を見せてくれた。嬉しかった。
ポリーニは楽譜を手に、ダークスーツにストライプのネクタイで登場。とても嬉しそうな表情だ。敬愛するノーノの曲、協力し、献呈を受けた曲を演奏する誇らしさ、喜び、だろうか。その笑顔を見るうちに、私の中の苦手意識も溶けていった。喜んで聴かせて頂きます、マエストロ。
だが、ピアノに向かうや、ポリーニの表情は厳しい緊張感に満たされる。体の芯に響くようなテープの音がホール中に響き、彼の手から光り輝く強靭な音が発される。緊張を孕みながら、せめぎ合うように、調和を求めるように、寄り添うように。圧倒的な世界と対峙する、凛とした個人の存在を思わされる。CDで聴いても、余程音量を上げない限り、この音楽の「場」の大きさは判らない、ライブのピアノの煌めきと強靭さも感知できないだろう。素晴らしい体験となった。

ジェズアルドの曲が終わり、盛大な拍手の続く中、舞台の袖にポリーニの姿が見える。客席には見えないつもり(?)で、笑顔でオルトナーと演奏者達に拍手を送っている。
とてもとても、良い演奏会でしたね、マエストロ。あと2回、この合唱団との共演があり、マエストロの伴奏が聴けるなんて、夢のようです。

2002年10月30日 09時51分

第2夜・10月25日
第1夜が豪華さにおいて「花火」のような幕開けだとしたら、この第2夜は「はるかに時代を隔てた音楽を対比する」というコンセプトによる、実質的なポリーニ・プロジェクトの開始といえるだろう。
私にとってはどの曲も初めて聴くものばかり。プログラムで予習しても、その詳細さもあって、なかなか頭に入らない。会場で読もうと、また持っていくことにする。
紀尾井ホールはほぼ満員。後ろの2・3列はライブ・エレクトロニクスのために機材がセットされている。

第1曲「シランクス」は、フルートの美質を味わう曲といえるだろうか、妖しいほどの音の魅力を発揮して、たゆたうような旋律が流れていく。「セクエンツァT」は、その同じフルートが、全く違う表情を見せる。様々な奏法、音色の目まぐるしい変化。
次に真っ暗なホールにわずかに青い照明を舞台にあて、ファゴットによるセクエンツァ]Uが始まる。水底からのように、かすかな1本の音が生まれ、やがて野太い響きになり、変化し、持続し、技巧を駆使しながら長い長い旋律を奏でていく。およそオーケストラで聴くファゴットという楽器とは思えない音色であり、奏法だ。面白かった(けれど途中少しトロッとしてもいた)。
「アルトラ・ヴォーチェ」はフルートとソプラノの生の声に、舞台奥のスピーカーからテープに取ったその音が放たれ、混ざり合うもの。今聴いているのがどの声なのか、どこから響く音なのか、よく判らないままにホールに音が満たされ、渦巻く。(ウ〜ン、現代音楽はやっぱりよくワカラナイ・・・)

休憩後、会場に高周波音が流れるという、ハプニングがあった。一旦ホールを空にして点検。幸い無事解決し、20分ほど遅れて後半が始まった。

真中にかわいい(=小さい―ピアノに比べて)チェンバロが置かれ、ポリーニは客席に背を向け着席。対訳の歌詞を見るつもりでいたが、場内は暗くて見えず、ポリーニの背中を見つめて聞くことになる。
ソプラノの温かみのある柔らかな声が、感情を込めて長いフレーズを歌っていく。通奏低音のチェンバロは特有のか細い音でリズムとアクセントをつけ、チェロが低い音で支えていく。曲が進むに連れ、次々と声部を増やし、最後は6声に弦楽が加わり、豪華な声と音の饗宴になった。歌手はこれまでもポリーニと共演したり、バロック・オペラをレパートリーに持つ人たち。堂々と安定した歌いぶりで、豊かな感情の表現を聴かせてくれた。
ポリーニはチェンバロを弾きながら片手で、また時に両手で指揮し、「戦いの歌」では立ち上がって歌手と弦楽器の全体を指揮していた。その後姿に熱い表現の意思が溢れている。作曲者自身も、チェンバロの伴奏だけでは足りない思いを、こうやって表したのかもしれない、と思う。それほど、表現力に溢れた、心に訴えてくる曲たちだった。講演会の話に「イタリアの文化の活力ある時代」という言葉があったが、まさにその豊かさを感じさせる、大らかで人間味に溢れた音楽だった。時代の隔たり、違和感など感じることなく、楽しむことができた。

盛大な拍手。ポリーニは歌手と器楽奏者たちへの拍手を送る。もちろん、歌手たちへ大きな拍手を送りたい。でも、ポリーニが舞台に現れると、なお盛大な拍手が起る。そう、マエストロ、これはあなたのプロジェクトなのだから。素晴らしいプログラムを、ありがとうございました。

2002年10月27日 22時18分

開幕・10月21日
ついに始まった。待ちに待ったポリーニ・プロジェクト。このところネット上を飛び交っていた「いよいよ」と言う言葉が、「ついに」に変る日。「語る会」への参加を経て、期待は一層高まっている。
21日は朝からリハーサルを見ることが出来、現実が進行していくことで、緊張感ともいえる期待感が、嬉しい期待感に変っていった。

雨の中、朝早くから並んでくださったズーさんのお陰で、前の方の席で見学。
詳しいことは避けるが「火の鳥」で始まり、淡々と着実に進んでいたリハーサルが、ポリーニの登場で会場に(客席に、というべきか)特別な雰囲気が生まれる(思わず拍手が起き、ポリーニは笑顔で会釈する)。
椅子に上着をかけ、ワイシャツ姿でピアノに向かうが、いざ演奏が始まると、ピアノの圧倒的な力感と緊張感に息苦しさを覚えるほど。ポリーニはリハーサルといえども、軽く流す、ということをしないのだ。
最後が合わず、何回かやり直し。ポリーニがブーレーズに何か言いに行ったり、コンマスと話したり。どうもホールの音響の加減か、舞台上と客席後方で、ズレがあるようだ(と、スタッフとのやりとりから、ひろこさんの推測)。
でも、時間どおりにピタリと終わり、ポリーニは拍手で退場。ブーレーズにも拍手。

ホールではもう分厚いプログラムが販売されている。2000円では安いと思われる豪華なもので、表紙のオブジェ等センスも良く、初めて見る写真がとっても嬉しい。重すぎるのが難だが、家でしっかり勉強致します、と思わされる充実した内容。ポリーニのプロジェクトにかける意気込みが感じられる。

一旦帰宅して、今日の分を予習。解説(佐野光司氏)の前書で、この多くの作曲家の中にバッハが含まれていないことを不審に思う人もあろう・・・とあり、「時代を切り拓いた作曲家を中心に」構成された意味を書いている。なるほど。ストラヴィンスキーは「火の鳥」を、バルトークの協奏曲は1番を選んだのは、そういうこともあるのか。

夜。上野、東京文化会館は始まる前から熱気と、聴衆の期待感がやっと開放される、という感じの喜び、一種の華やぎがある。
第1曲目はブーレーズ「弦楽のための本」。解説によればCDにあるのは初期の版で、今回は改訂された1988年版。予習も空しくはじめて聴くことになる。「聴きなれない曲も、注意深く聴くことによって、新しい発見があるのです」というマエストロの教えを実践するときだ。
1本の糸が布に織り上げられていくように、音から音楽が生まれ出て、生長し、変容していく姿を、弦の張りつめた精緻なアンサンブルに聴く(集中力が高められたような気がする)。

舞台にピアノが運び込まれ、位置の調整がなされ、管・打楽器陣も入り、いよいよポリーニ登場。
ズシリとしたピアノの低音が響き、打楽器が合わせて曲が始まると、ホール内に緊張感がさらに漲る。私の席はポリーニの指がよく見える位置で、その動きの速さに感嘆し、タッチと音色の様々なニュアンスに目と耳を凝らす。全く圧倒的に凄いピアニズムだ。
だが私は、リハーサルで気になったオーケストラとの微妙なズレが頭の隅に引っ掛り、第1楽章は集中し切れなかった。ポリーニがなにか孤軍奮闘しているような気さえする。しかし、ポリーニは妥協しない、挑戦しつづける、そういうマエストロなのだ。その姿を如実に見たようにも思う。
第2楽章は私の大好きな部分。管・打楽器とピアノの音とリズムの対話を、張りつめた中にも半ばウットリと聴く。ポリーニの、共演者への意識の配り、曲想の深さに感動させられる。
第3楽章は一転して、力強い、勢いに満ちた曲の、そのような演奏だった。ポリーニの打鍵が輝きを発し、冴え渡る。スピード感とともに重厚感のある圧倒的な演奏だった。そしてまたスリリングなライブ、醍醐味のあるライブだった。
盛大な拍手に応え、何度も舞台に出てくれたマエストロ。ありがとうございました。

休憩後、静まった会場に不意に拍手が起る中、ポリーニと奥様ほか二人が通路を上がって中央の席につく。同じ会場で一緒に聴けるのが、なんだか嬉しい。

「火の鳥」は素晴らしい演奏だった。管楽器が美しく、また威力を発揮する。打楽器もピタリと発せられ、アンサンブルの精度が高く、しかもエネルギーに満ちている。ロシア的と言われるような土俗的なエネルギーではなく、洗練度を高め、精緻さを極めるところに生みだされるエネルギーとでもいえるだろうか。作曲され、喝采を博した時点とは異なった位相で、新たな光を放っている作品であり、演奏だった。
盛大な拍手に応えて、アンコールはストラヴィンスキー「花火」。ポリーニ達はその直前に後ろ扉から退場(ア〜ア・・・)。

終演後、ナミコさん、かずこさん、あゆみさん、ひろこさん、えちゅーどさん、ズーさんとご挨拶、大使さんとも少しお会いできたのが、嬉しかった。

思えばなんと贅沢な演奏会だったろう。ポリーニは勿論、指揮者、オーケストラすべてが最高水準、巧みに編まれたプログラムは、意味深いとともに多彩な楽しさを見出せるもの。この演奏会からプロジェクトをスタートさせた、ポリーニの慧眼を思う。
そして、これからの演奏会も、ますます楽しみになってきた。

2002年10月24日 01時24分

ポリーニ、音楽を語る
10月16日、待望の「ポリーニ、音楽を語る」に行ってきました。

扉が開いて少しの間(いつものように)シーンとした中を、マエストロは通訳の女性と話しながら、出てこられました。
右手には重そうな黒革のカバン、「学者風」な感じです。ア、もう舞台だった、って感じで笑顔を見せ、拍手に応えにこやかに着席。
薄いグレーのスーツに落ち着いた色合い(紺地に赤と薄茶)のストライプのネクタイ。
ダンディです。1年半ぶりに見るお元気そうな姿に、ジーンとしてしまいました。
進行役は岡部真一郎さん、まず1時間半のお話と、その後に会場からの質問、ということで開始。

まず「60歳、還暦を迎えて、心境の変化はありますか?」との問いには、大きく苦笑しながら、
「全くありません、今までと同じように、新しいものに挑戦していくつもりです」とやっぱり意欲的なマエストロです。

次いで本題のプロジェクトについて話が進みます。以下、断片的ですが、メモをもとに記します。
プロジェクトは「まずザルツブルクで始め、ニューヨークでも行ったものだが、主催者から曲目、出演者、構成すべてを任され」、 「自分自身の好きな曲を、演奏だけでなく、聴くのも好きな曲を選んだ」
「一流のアーティストと共演できたことが大きなプラスになった」とのこと。
岡部氏が声楽作品が多いことをあげると、
「私はピアニストで、ずっとピアノと共に生きてきた。ピアノはオーケストラにも、また声楽にも寄り添うことのできる、大きな可能性を持つ楽器だ。けれども、私は「声」に対して非常に(グレート)ノスタルジーを感じる。人間の声は一番美しい楽器だと思う。私自身が声の作品を聴きたい」
「ザルツブルクでフィッシャー=ディスカウと『冬の旅』を演奏した」けれども、声楽家との共演はあまり経験はないとのこと。

シューベルトの話題からプロジェクトのプログラムに話が進み、
いろいろな組み合わせ(女声、男声、ソロ、コーラス、種々の楽器)の曲を配すこと、
いろいろな時代の音楽をどのプログラムにも組み入れること、
有名な作曲家の演奏されることの少ない作品を取り上げること、
どの日にも現代作品を取り上げること、をコンセプトにした、と。
「現代作品をもっと取り上げるべきだ、若い作曲家の励みにもなるし、同時代に生きる者として当然のことだ」と熱心に語るのも、ポリーニらしい。

17世紀の作品もあまり演奏されないが、「私自身が楽しんで勉強した3人の作品を取り上げた」
モンテヴェルディは言葉と音楽の関係を密にして、新しい音楽語法を生み、クリアでドラマティックな感情表現をして、オペラへとつながる新しい音楽のページを開いた。
ジェズアルド、マレンツィオもイタリアの活力ある時代に生きた巨匠だ。
ここでピアノに向かい、2人のマドリガーレを弾く。
当時は珍しい「ソ」からはじまるクロマティック・スケールが革新的だという、マレンツィオのペトラルカの詩につけた曲(ポリーニの声も聴こえる)。
ジェズアルドも半音階が革新的に使われ、特に最後の「morire(死ぬ)」という言葉につけた音は非常に新しい響きだ。
(弾きながら客席の方へ「どうです、美しいでしょう?」というような、柔らかな笑顔を向けます。本当に美しい音、斬新な感じのステキな曲でした。)
3人とも、ペトラルカやタッソなど当時の一流の詩人の詩に曲をつけ、音楽を通して言葉の力をさらに強くした。テキストと音楽とのハイレベルな結合がなされた、と。
シューベルトは多くの歌曲を早書きで書いたのに、ゲーテの詩にはスケッチを幾つも書き、書き直し、ハイレベルな曲を生み出した(「ウィルヘルム・マイスター」「水の上の精霊の歌」はゲーテの詩に付けたもの)。
また、ノーノの「ディドーネの合唱」はイタリアを代表する詩人、ウンガレッティの詩につけたもの。
マンゾーニの「霊魂の罠」は日本の世阿弥の能からインスピレーションを得たもの。
現代においても、優れたテキストと音楽表現は密接に結びついている、とのこと。
「アーティスト同士や文化人との交流から作品が生まれる」という点で、
「ポリーニさんはどうですか」との質問に、
「とても重要です、音楽家や詩人と触れ合うことは、可能性を高め、ファンタスティックです」

そして、時代によって音楽言語は様々に異なっているが、どの時代でも一流のものは音楽的表現力というものを持っている。表現力の力強さは変らない、現代の作品にも、それを聞いて欲しい、と。
シェーンベルクを例に説明、初期の「ペレアスとメリザンド」(とてもロマンチック!)と無調のOp.11を弾く。
シェーンベルクは無調へ移行することについて「他の人がやらないから、自分がやった」と言い、「いやいやながらの革命家」などとも言われるが、それは彼の革新が伝統の延長線上にあるということでもある。
今回の演奏曲、晩年の12音技法による「深き淵より」と、調性のある「地には平和を」の間に共通するものを聞いて欲しい、と。
次にブラームスのOp.116の「インテルメッツォ」とウェーベルンの12音技法の「変奏曲」の一部を弾いて、前者が後者に取り入れられていること、構造に内的連関があることを示す(確かに、よく判る)。
どちらもドイツ音楽の伝統に連なるもの、と説明。

シュトックハウゼンもまたシェーンベルク、ウェーベルンの継承者であり、50年経った今、現代音楽の古典となりつつあるが、やはり新鮮であり、彼ならではのハーモニーが素晴らしい。
今回は第5、9曲を演奏するとのこと。

「ノーノはどんな作曲家ですか?」との岡部氏の問いに、「聴けばわかります」と一言、大笑い。
親しい友人だった。ドイツではじめて会い、ピアノ曲を書いて下さい、と頼んだが、ピアノには興味がないと言われた。が、2・3年後2つの曲を書き、ポリーニ自身もテープ作成に協力したこと。
その「苦悩に満ちながらも晴朗な波」では2つの楽器(テープとピアノ・ライブ)の対話が興味深いだろう。
岡部氏がノーノと日本の関係深さに言及。サントリー・ホールのオープニングで委嘱作を書いたこと。建築家の磯崎新氏が親しくて、お墓を設計したこと。秋吉台にホールを建てたこと。

ブーレーズについて。作曲界の巨人である、70年代初めにニューヨークで出会い、ベリオと3人でヴェルディについて激論を交わしたとか。
岡部氏の話では、ブーレーズは大のヴェルデイ嫌いで、「『運命の力』序曲を演奏しろと言われたら、指揮者を辞める!」と言っていたとか。しかし、イギリスBBC交響楽団に指揮者デビューの曲は、なんとショパンの協奏曲第1番、ロマン派の指揮は初めてで、ウェイターがお皿を落としながら歩くような指揮(どんな指揮?)だったとか。ポリーニも思わず笑って「でも、指揮者を辞めませんでしたね」

ベリオについて。セクエンツァは初期のT(フルート)と新しい作品]U(ファゴット)を並べ、それぞれ楽器は違うが、一つの声の追究を聴くもの、「アルトラ・ヴォーチェ」は'99年ザルツブルクのプロジェットの委嘱作で、フルート、メゾソプラノ、エレクトロニクスの交錯する妙を味わって欲しい、と。

ノンストップで真摯な話が8時40分まで続き、質疑応答になりました。
1.ヴェルディのオペラを指揮する予定は?
  「ノー・プラン」。
2.ベートーヴェンの協奏曲4番第1楽章について、バックハウスは「喜び」を、アラウは「悲しみ」を表していると言っているが、ポリーニさんはどうですか。
  「セレニティ、厳粛さのある曲だと思う。静かさとともにドラマティックな面もある」
3.ショパンのソナタ2番第1楽章の繰り返しについて。5小節に戻る、から冒頭へ戻るへと変更したのはなぜか。
  「ショパンの手稿を研究して」。印刷され出回っている楽譜にはミスも多い、と厳しい表情。
(できれば、今夜の話に関連した質問にして下さい、と司会者に告げ、時間も余りないのであと2つに限定。)
4.演奏の変化について、プロジェットを行ってきていることと関係ありますか。
  「そうは思いません」。
5.作曲家のつながりについて、ショパンとドビュッシーは、どうですか。なぜ、プロジェクトの最後におくのですか。
  「ドビュッシーはショパンを大変尊敬していました」等々。

話し終え、質疑応答になって、さすがにお疲れのご様子のマエストロ。
(次回いらっしゃる方は、どうぞ講演会に即した質問をなさってください。)
前日に来日したばかり、今後も八面六臂の活動で超多忙、ということで、9時少し前に終了となりました。
主催者側に感謝を述べ、拍手に素晴らしい笑顔で応え、岡部氏、通訳の方と握手を交わし、ねぎらい、客席に優しい笑顔を向けて、扉に入る間際までにこやかに、去って行かれました。


英語のヒアリングはやっぱりダメで、ポリーニのお話は声を聞くこと(と見ること)に専念、通訳さんの話をメモしました。不十分なご報告ですみません。補足、訂正のある方はご指摘ください。

それにしても、充実した2時間でした。ポリーニの音楽への真摯な関わりが、あらゆることに感じ取れました。彼の音楽への熱心な探求の深さ、多彩さ。そのバックグラウンドの広さは、文化のあらゆる領域にまで及んでいるようです。ポリーニのピアノを聴くことだけが、ポリーニを知ることではない、と思わされます。彼はもっと大きな表現者、創造者なのだと(あ、神様とか、そういう意味ではありません)。
その多くのものの中から「大好きなもの」を選んで、確かな視点の下に構成して、提示してくれるのが、このプロジェクトです。いまだ知らぬ曲も、苦手意識が先立つ曲も、聴いてみよう、という前向きな気持ちになります。

印象的だったのは、「声」というものに“great nostalgia”を感じます、という言葉。
彼の温かい人間性が伝わってくる言葉でした。
ポリーニのピアノが歌に溢れているのも(そして時々彼の歌声が聞こえてくるのも)関連があるのではないでしょうか。
それから、ピアノを弾いている時の穏やかな顔、優しい笑顔。
久しぶりに聴くポリーニのピアノは、本当に美しい音でした。
ほんの少しの時間、曲のごく一部でしかありませんが、幸福感を味わいました。
浜離宮朝日ホールは音響の良さで有名だそうですが、こんな小じんまりしたホールで、ポリーニのピアノを聴けたら、どんなに幸せなことか。

ホールでは「ポリーニTシャツ」を売っていました。黒地にピンク(バラ色、かな? ケバくはないです)のポリーニの写真(editionの)。背中にはプロジェクト協演者の名前が一覧になっているもの。
エーッ!と驚き、可笑しさが込み上げ、誰が考えたの〜?と、発案には脱帽。
一瞬、ポリーニがこれを着て登場したら、、、との危惧も(^^;)(大丈夫でした)
でも。結構売れてるようでした。2000円也。
で、帰宅してから、やっぱり買っとけばよかったかなぁ・・・と迷っている、優柔不断な私です。
皆さまなら、どうなさるでしょう。

2002年10月18日 00時40分

幕を開けて、颯爽と
10月のイメージ・爽やかな秋晴れは、1日遅れでやってきました。戦後最強といわれた台風、皆さまのところは大丈夫でしたか。
月半ばには戦後最高の音楽家(達)を迎える日本、東京は今日はちょっと暑いけれど、しばらく気持ちの良い秋の日が続くといいですね。

ポリーニは2002〜2003年のシーズンを、ミラノの"Percorsi di musica d'oggi 2002(今日の音楽の進路)" のリサイタルで開始。これはMilano Musicaの主催する現代音楽のシリーズで、20世紀の作曲家から現代イタリアの若い作曲家までを取り上げ、アルデッティ4重奏団、ヴェルディ管弦楽団など、比較的若い(多分)メンバーによる7回の演奏会です。
その開幕を務めたマエストロのリサイタルには、"magnificente"とありました。
このほかに、10月10日に"Una scia sul mare(海の航跡):Abbado-Nono-Pollini"が上映されます。ノーノの作品と生涯を中心に、3人の友情と協同を描いた60分のフィルムのようです。

次には、ボローニャの"Musica Insieme"のリサイタル。このシリーズにはクレーメルやブレンデルも名を連ねています。
開幕に先立ち、先月末に"Pollini e la sua musica(ポリーニと彼の音楽)"が上映されました。予告記事から簡単にご紹介すると、

2001年にRAI3によって製作された、Nino CriscentiとSandro Cappellettoによる2時間半の長編。
舞台の幕の後ろから、学生と共にいるところまで。練習の時から工場での演奏会の数年まで。演奏、教育、さまざまな活動の様子に光を当てた、きわめて率直なポートレート。
フィルムはミラノからロンドン、ザルツブルク、ペーザロへと、多くの場所に移動し、Fiesoleでは若い学生達との激しいディベートにも接している。
イタリアでは未発表の時期の重要なフィルムによって内容に富み、18歳のポリーニのショパン・コンクール優勝の演奏会も見られる。
したがってこのフィルムは、我々の時代の音楽の歴史を本気で作ってきた演奏家の一人を、間近に知ることのできる素晴らしい機会なのだ。
実際に、マエストロがかなり協力的であったおかげで、彼の活動の意義深い瞬間を切り取ることができた。
また珍しい瞬間もある、例えば2000年にザルツブルクで、チェンバロの前でモンテヴェルディの練習に夢中なところ、或は、上着を脱いでシュトックハウゼンの難曲に取り組んでいるところ。
最後に友人や同僚の証言がある。著名なゲストのリストは長いが、その中にはVittorio Gregotti、Gae Aulenti、Claudio Abbado、Salvatore Accardo、Giacomo Manzoni、Salvatore Sciarrino、Nuria Nono がいる。批評家も欠けてはいず、イタリアの音楽評論の第一人者Rubens TedeschiとLeonardo Pinzautiに委ねられている。

GregottiはArcimboldi劇場の設計者、Aulenti女史ともども高名な建築家です。お父上からの人脈かもしれませんが、造形美術への関心も高いマエストロの姿をうかがわせます。75歳の2人の証言は、もしかしたら、少年のポリーニにも触れているかな・・・。

そして今日2日、「彼のお気に入りの作曲家」ショパン、ドビュッシーによる開幕リサイタルは。
主催者はテアトル・コムナーレの収容能力を超える非常に多くの要求に応えて、チケットを入手できなかったファンのために、ヴェルディ広場にて生中継を映写する、とのこと。やってくれますね! 
東京でも、カラヤン広場で、なんて考えてしまいますね。

スケジュール表にTV放映の予定を入れました。「私達の」スケジュール表みたいですが、お許し いただきましょう。予定どおり放送されることを心から願いつつ。

2002年10月2日 15時42分

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