"apollinisch"という言葉をご存知でしたか?
"Der Standard"紙に、ウィーン芸術週間のショパン・リスト演奏会の批評記事にありました。「ポリーニ的」とでもいうのかと思ったのですが・・・、「アポロ的」だそうです。
『彼は音色を好んで明るく輝かせ、作品の構築を明確な輪郭で差し出すのである。彼の進み方は調和の取れたもので、適切でまたアポロ的(apollinisch)である、Polliniが"apollinisch"と言う言葉の中に見事に嵌まり込んでいることが偶然とは思えないほどに。』
オオッ!と感心しつつ、オーストリア人もダジャレを言うのね(^^)と、ちょっと可笑しくなりました。
このように書きはじめながら、『角氷的音楽の詩論へ』(?)と題したこの批評は少々辛口です。
『ショパンにおいてはまたイタリアのミニマリスト(?)は透明性と分析論の保証人である。そして疑いなくその結論は、感傷性は解釈の完全性に対するうわべの安っぽい勝利にすぎない、という認識に帰せられる。それによって彼は、最後の涙を絞りとることによらずに、音楽の壮観さと圧倒的なものに到達するのである。
さてこの透明性と感情的であることに対する懐疑は、硬い、冷たい態度に変わる危険を常にもっている。それは我々に、あまりにも超然とした曲に対する執行人として、演奏者を思い浮かべさせる。我々はウィーン・コンツェルトハウスで既にそのようだったかもしれない、そこではショパンに対する距離の取り方が、ポリーニの独奏の夕べの殆ど主要動機となっていた。
プレリュードでは指示の通りに旋律的につとめ、バラード2番では青白い歌(カンティレーナ)を奏した。ポリーニは客観的に表されるフーガ主題の優位の中に(ここはよく判らない^^;)ショパンの歌を据える。にもかかわらず、それは明らかにするよりもむしろ無関係に働いた。主として冷たく供されたショパン、特に耳の落ちそうなスケルツォ1番、ポリーニは線(旋律?)の轟くようなドラマティックさと、熟考しながら音色を保つことを交替させるのを断念し、機械のようなエチュードで本式に腕前を見せた。
リストの心情のモノローグ、ソナタロ短調は、このような快活で考え深い把握にその点では意に沿っていて、彼は構造を引き締め、造形的に演奏した。ここではまたポリーニはむしろドラマティックな地震(?)に興味があるようだった。彼は冒険を楽しんでいるかのように調和の世界に身を投じた、しかし作品の叙情的な急所に確かに触れることはなしに。最後にのみ、下降の連続が今一度苦しげに列をなしてくる時、あちらの(彼岸の?)緊張の幻影があった。少しばかり遅すぎた。』
・・・要領を得ない訳(どころか間違っているかも^^;)でごめんなさい。
もうひとつ、"Wiener Zeitung"紙の短い評を載せておきます。
『感動的なまでに完璧:激情(Pathos)なしの叙述』
『マウリツィオ・ポリーニは我々のシーズンにおける彼の最近のピアノの夕べを、ショパンのいくつかの短い作品(バラード2番!)で開始し、その後幻想ポロネーズとスケルツォ1番に取り掛かった。
彼はこれらを模範的な明晰さの、しかしまた冷静なやり方で、過度の情熱を避けた方法で行った。しかし彼は比類無く"語る"ことが出来る、つまり叙述(Narrative)は彼の演奏様式において本質的な要素であり、そこでは精神の緊張が副の役割を果たすことができる、と。
プログラムの一部として捧げられたリストの重要な作品はソナタロ短調であった。おそくとも今、卓越したミラノ人の成熟したテクニックに対する賞賛の言葉は適所を得ている。それはこれまで唯ピアノ演奏の大家として彼に明示されていたのだが、今はまた、芸術家としての、緊張に富み、強い感情により印象づけられた力の傾注が、称揚さるべきだろう。それはあらゆる点において完璧であった。』
25日はパリで、やはりショパンとリストによるリサイタル。今度はどんな風に迎えられるのでしょう。
21日のバルトークの協奏曲は、ホール中の大喝采とブーレーズの称賛を受けた(それしか判らない^^;)とありました。
ケーさん、三須さんのお知らせを頂き、来日プロとアンコールに追加を載せました。ありがとうございました。(新情報にはを付けました。)