ポリーニ・インタビュー 1

音楽の感情的側面は、私にとって常に本質的でした

40年来、マウリツィオ・ポリーニは世界で最高の、最も有名な音楽家に属している。彼はホロヴィッツやルービンシュタインのような「伝説」の後継者と見なしうる少数のピアニストの一人である。数え切れないほどの演奏会で、また多くのCDを通じて、彼は"20世紀の偉大なピアニスト達"の殿堂の中に入っていった。そして21世紀にも、彼の音楽的創造力が衰えることはない。
グレゴール・ヴィルメスがベルリンでポリーニに話をきいた。

「柔らかな光の中のショパン」

ベルリンのフィルハーモニーの座席はどこも同じではない。そのことは切符の値段にも示されるが、また聞き取ることもできる。マウリツィオ・ポリーニとの夕べに、私はそれを自分で体験した。演奏会の前半私は舞台の横手に座り、ピアニストと殆ど対面するようにして見ていた。ポリーニはショパンの24の前奏曲Op.28を、完璧に造形的に、輝くようなメロディをもって演奏した。と同時に彼のショパンは、多くのCDで知られていた硬質な響きでは決してなかった。少なくともブロックE(横手の席)では、すべてがしなやかで柔らかな、まるで紗幕の後ろにいるような印象であった。フォルティッシモは消えうせていた。
休憩時間に席を替わり、舞台から2列目に座り、どのようにポリーニが彼の高い技法へ駆け上るのかを目の当たりにした。1960年のショパン受賞者には、すべてが極めてうまくいったとは言えない。例えばスケルツォ第1番はなにか急ぎ過ぎの印象を与えた。しかし2つの夜想曲Op.27でいかに旋律を"歌わせた"か、またソナタ第2番ではいかにして驚くべき緊張感をもって葬送行進曲を中心になしたことか・・・これに勝るものは殆どないだろう。幾つかのアンコール、大喝采、スタンディング・オヴェーションをもってこの夕べは終えられた。「あらゆる思慮深さと透徹した冷静さにもかかわらず、マウリツィオ・ポリーニよりも輝かしい、優秀なショパンの演奏者はいない」という記事が、後に"Welt"に掲載された。

「まずこのコーヒーを飲ませてください、今朝はまだちょっと眠くって。昨晩は演奏会のあと少し遅くなってしまったもので。」と謝りながら、翌日の正午過ぎ、ポリーニはインタビューに現れた。彼は思慮深く語り、むしろ沈思しながら、質問に直接的に応ずるというより、基本的な質問に対して熟慮した答えを自ら見出していった。

Gregor Willmes(以下GW):昨日は素晴らしい演奏会で、あなたにとっても大きな成功だったと思います。昨夜はどんなことを感じられましたか。登場前、休憩時、終わってからは?

Maurizio Pollini(以下MP):それは本当に個人的なことなので、そういった領域へは立ち入りたくありません。しかし人が演奏会を後にする時の主観的な状態は、その都度異なります。そのことは事態を面白くもしますが、また往々にして複雑にもするのです。

GW:ベルリンのフィルハーモニーに登場なさる時は、1000人以上の聴衆を前にするのですが、他の時と比べて少し神経質になるということはありませんか?

MP:私はもう何度もフィルハーモニーで演奏しています。素晴らしいホールでとても気に入っています。唯一の問題は、あなたは異論を唱えるかもしれないが、ピアノのレパートリーの大部分は、それを最良に聴くには、もっと小さなホールが適しているかも知れない、ということです。これは地球上の大抵の演奏会ホールの宿命です。しかしフィルハーモニーは私には全く快適に思えます。

GW:ショパンの音楽には、いくらか、より親密な環境が適しているかも知れない、と思われますか?

MP:各々の音楽の理念は、オーケストラでも、弦楽四重奏でも、或いはピアノでも、その響きが空間を十分に満たすことです。フォルティッシモは実際に身体的に観客をとらえねばなりません。客観的には、弦楽四重奏の、オーケストラの、ピアノのための演奏会ホールの大きさは、それぞれ異なるべきだと言えるでしょう、理論的にはね。

GW:だからあなたはいつも、ふさわしい音の質を追求しているのですか?

MP:そのことで、いつかフィッシャー=ディースカウが言ったとても興味深いことを思い出します。つまり、ホールが大きかろうと小さかろうと、最も重要な響きの質はいつも同一であるべきだ、ということです。作曲家への関りのためには、音色は何よりも重要だからです。そしてそれはホールによって変えられるべきではないのです。おそらく誰でも大きなホールでは、最後列にまで届く響きを発さなけれならないのだ、という気持ちになるでしょう。しかし響きの質を変えようとするのではなく、この質の響きをこそ得ようとつとめるのです。

GW:あなたはいつもまたショパンに立ち返られますが、何があなたを惹きつけるのでしょうか?

MP:私は今、以前よりもっと、ショパンを演奏することは特別の恩恵であると感じています。 それは、彼の音楽の中で二つの非凡なことが結合している、ということに基づいています。彼はピアノ音楽を信じられないほどの質で書きました。ショパンの響きのイメージの完璧さ、ピアノのための書法の洗練、その楽器から引き出し得た美しさは、おそらくピアノに関していえば、他のどの作曲家達のそれより大きいでしょう。しかし更に重要なのは、特に魅力的なのは、この非凡な、楽器に適合した書法が、結局は最も偉大な作曲家の音楽に、確かに結びついているということです。彼は、フルトヴェングラーが「私はピアニスト達が羨ましい、ショパンがあるから」と言った、そういう人間なのです。想像できますか? そこにはなにか、フルトヴェングラーの視野から見た、ショパンの音楽のレベルの途方も無い高さが、関わりあっているのでしょう。ショパンはある時言っています「多くの思索の込められていない音楽は、どれも私は大嫌いです」と。

GW:それはショパンらしくないですね。

MP:必ずしもショパンらしさというものがあるとは思われません。

GW:あなたはアルトゥール・ルービンシュタインよりもむしろアルフレード・ブレンデルに比較し得る、非常に知的な音楽家であると、これまで多くの評論で読んできました。しかしバラードの新録音を聴いて、とても感情豊かに演奏されていると思いました。新たな方向なのでしょうか? 今はより情緒を重視しようとお思いですか?

MP:私は音楽家または一般に芸術家に対するある見方には反対です。つまり、知性を一方に、感情・自発性乃至表現の豊かさを他方に据えるやり方です。これらの性質は互いに対立してあるのではなく、全く共にあってひとつの全体を成すのです。

GW:ひとつのメダルの両面のように、ですか?

MP:それらは相対する方向にあるのではなく、共に作用し合ってひとつの芸術的成果になるのです。それから、私は思うのですが、このことはすべての重要な作品においてと同様、あらゆる優れた演奏においても、全く真実なのです。音楽の感情的な側面は、私にとって常に本質的でした。

(「FONO FORUM」10/00 より)

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