グレゴール・ヴィルメスがベルリンでポリーニに話をきいた。 「柔らかな光の中のショパン」
ベルリンのフィルハーモニーの座席はどこも同じではない。そのことは切符の値段にも示されるが、また聞き取ることもできる。マウリツィオ・ポリーニとの夕べに、私はそれを自分で体験した。演奏会の前半私は舞台の横手に座り、ピアニストと殆ど対面するようにして見ていた。ポリーニはショパンの24の前奏曲Op.28を、完璧に造形的に、輝くようなメロディをもって演奏した。と同時に彼のショパンは、多くのCDで知られていた硬質な響きでは決してなかった。少なくともブロックE(横手の席)では、すべてがしなやかで柔らかな、まるで紗幕の後ろにいるような印象であった。フォルティッシモは消えうせていた。 「まずこのコーヒーを飲ませてください、今朝はまだちょっと眠くって。昨晩は演奏会のあと少し遅くなってしまったもので。」と謝りながら、翌日の正午過ぎ、ポリーニはインタビューに現れた。彼は思慮深く語り、むしろ沈思しながら、質問に直接的に応ずるというより、基本的な質問に対して熟慮した答えを自ら見出していった。 Gregor Willmes(以下GW):昨日は素晴らしい演奏会で、あなたにとっても大きな成功だったと思います。昨夜はどんなことを感じられましたか。登場前、休憩時、終わってからは? Maurizio Pollini(以下MP):それは本当に個人的なことなので、そういった領域へは立ち入りたくありません。しかし人が演奏会を後にする時の主観的な状態は、その都度異なります。そのことは事態を面白くもしますが、また往々にして複雑にもするのです。 GW:ベルリンのフィルハーモニーに登場なさる時は、1000人以上の聴衆を前にするのですが、他の時と比べて少し神経質になるということはありませんか? MP:私はもう何度もフィルハーモニーで演奏しています。素晴らしいホールでとても気に入っています。唯一の問題は、あなたは異論を唱えるかもしれないが、ピアノのレパートリーの大部分は、それを最良に聴くには、もっと小さなホールが適しているかも知れない、ということです。これは地球上の大抵の演奏会ホールの宿命です。しかしフィルハーモニーは私には全く快適に思えます。 GW:ショパンの音楽には、いくらか、より親密な環境が適しているかも知れない、と思われますか? MP:各々の音楽の理念は、オーケストラでも、弦楽四重奏でも、或いはピアノでも、その響きが空間を十分に満たすことです。フォルティッシモは実際に身体的に観客をとらえねばなりません。客観的には、弦楽四重奏の、オーケストラの、ピアノのための演奏会ホールの大きさは、それぞれ異なるべきだと言えるでしょう、理論的にはね。 GW:だからあなたはいつも、ふさわしい音の質を追求しているのですか? MP:そのことで、いつかフィッシャー=ディースカウが言ったとても興味深いことを思い出します。つまり、ホールが大きかろうと小さかろうと、最も重要な響きの質はいつも同一であるべきだ、ということです。作曲家への関りのためには、音色は何よりも重要だからです。そしてそれはホールによって変えられるべきではないのです。おそらく誰でも大きなホールでは、最後列にまで届く響きを発さなけれならないのだ、という気持ちになるでしょう。しかし響きの質を変えようとするのではなく、この質の響きをこそ得ようとつとめるのです。 GW:あなたはいつもまたショパンに立ち返られますが、何があなたを惹きつけるのでしょうか? MP:私は今、以前よりもっと、ショパンを演奏することは特別の恩恵であると感じています。 それは、彼の音楽の中で二つの非凡なことが結合している、ということに基づいています。彼はピアノ音楽を信じられないほどの質で書きました。ショパンの響きのイメージの完璧さ、ピアノのための書法の洗練、その楽器から引き出し得た美しさは、おそらくピアノに関していえば、他のどの作曲家達のそれより大きいでしょう。しかし更に重要なのは、特に魅力的なのは、この非凡な、楽器に適合した書法が、結局は最も偉大な作曲家の音楽に、確かに結びついているということです。彼は、フルトヴェングラーが「私はピアニスト達が羨ましい、ショパンがあるから」と言った、そういう人間なのです。想像できますか? そこにはなにか、フルトヴェングラーの視野から見た、ショパンの音楽のレベルの途方も無い高さが、関わりあっているのでしょう。ショパンはある時言っています「多くの思索の込められていない音楽は、どれも私は大嫌いです」と。 GW:それはショパンらしくないですね。 MP:必ずしもショパンらしさというものがあるとは思われません。 GW:あなたはアルトゥール・ルービンシュタインよりもむしろアルフレード・ブレンデルに比較し得る、非常に知的な音楽家であると、これまで多くの評論で読んできました。しかしバラードの新録音を聴いて、とても感情豊かに演奏されていると思いました。新たな方向なのでしょうか? 今はより情緒を重視しようとお思いですか? MP:私は音楽家または一般に芸術家に対するある見方には反対です。つまり、知性を一方に、感情・自発性乃至表現の豊かさを他方に据えるやり方です。これらの性質は互いに対立してあるのではなく、全く共にあってひとつの全体を成すのです。 GW:ひとつのメダルの両面のように、ですか? MP:それらは相対する方向にあるのではなく、共に作用し合ってひとつの芸術的成果になるのです。それから、私は思うのですが、このことはすべての重要な作品においてと同様、あらゆる優れた演奏においても、全く真実なのです。音楽の感情的な側面は、私にとって常に本質的でした。
(「FONO FORUM」10/00 より)
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