トーニィとの会話

A:ルートヴィヒ、聴いていらっしゃる? あの変奏曲・・・。
L:ああ、トーニィ、君も聴いていたの。
A:なんて綺麗な音なんでしょう! それに弾むような感じで、踊りたくなってしまうわ。
L:ハハ・・・、アントンも喜ぶだろうよ、こんなに豊かな表情をつけてもらって、
  生き生きしたテーマになっている。
A:そうよ、「靴屋のつぎ皮」なんて言っては、ディアベッリさんがかわいそうよ。
L:まあ、そうかもしれないね。私も結局はこのテーマが気に入ったんだ。
  シンプルっていうのは良いことだよ。自由に向き合えるんだ。
A:いろいろな変化や発展ができるのね。最初にマーチにしてみるとか。
  でも、それができるのはあなたが柔軟な心を持っていらっしゃったからね。
L:実を言うと初めは遊び半分、というより、やる気になれなかったんだ。
  だって50人の変奏を並べるなんて企画、馬鹿げてるじゃないか。
  だから取り合わなかったんだが・・・、
  いくつか変奏してみると、結構いけるんだよ、これが。
A:それで、だんだん夢中になってしまったのね、子供みたいに目を輝かせて。
  この第4から7変奏なんて、楽しそうなあなたのお顔が見えるようよ。
L:もともと変奏技法は好きだったんだ。一度徹底的に追究してみたいと思っていた。
A:第7変奏の華やかさ! それに続く8番目の曲の綺麗なこと。安らぎを感じるわ。
  ・・・でも次の曲は何だか怖いような気がする。
L:うん、これはハ短調で書いた。
  ・・・自由に進めていくうちに、これは私のピアノの集大成みたいに思えてきたんだ。
  今まで一歩一歩前に進むことばかり考えてきたけれど、ここらで一服、と思ったら、
  ここまで来た道のりが見えてきた、という感じかな。
  そうすると音楽ばかりでなく、いろいろなことが思い出されてきてね。
A:ええ、判るわ、ルートヴィヒ。悲しいことも沢山あったのね。
L:まあね。でも本当に苦しんだのは耳のことさ。運命を呪ったよ。神を恨んだ。
  しかし死ぬことは出来なかった。
  音楽が、まだまだやるべきことがある、と呼びかけてくるんだ。
  立ち上がらざるを得なかった。
A:あなたが強い方だからだわ。でも音楽が力を与えてくれたとも言えるのね。
L:そうだね。皮肉な感じもするがね。
  悲しい思いも、悔しさも味わった。
  だが、いろんな人の友情や支援があったことにも気が付いたんだ。
A:愛情も、でしょ?
L:・・・そう、愛情もね。でもそれがまた苦しみのもとにもなったんだけど。
A:14番目の曲、不思議な感じね。波がひたひたと寄せてきて、胸に溢れてくるような。
  あぁ、この15変奏、私大好きよ、とってもチャーミングで愛らしい曲ね。
  それから17変奏までの盛り上がりが素敵。ドキドキするほどだわ。
  18変奏の優しさも、心が慰められるようね。
  ・・・本当にどうしてこんないろいろな変奏が描けるのかしら!
L:ハハハ・・・、まだ半分だよ。実を言うと15番目の曲はね、君のエピソードなんだ。
  君のそばで小さなマクセ達が遊んでるところのね。気に入ってくれて嬉しいよ。
  しかし、このピアニストは凄いな。鮮やかで、惚れ惚れするようなテクニックだ。
  曲の表情も見事に弾き分けている。
  今のピアノで弾くと、こんなスケールの大きな表現ができるのか。
  20変奏はコラールなんだが、低音の深々とした音色が心の奥にまで染みとおってくる。
A:高い方の音は澄み切っていて、宝石みたいに輝いて。
  それなのにとても柔らかいタッチなのね。優しい、温かい音で。
  24変奏はフーガね。落ち着いて、何だか居住まいを正したくなるような感じがする。
L:大バッハに敬意を表したくてね。音楽の流れを大きな河にしたのは、あの人だから。
  22変奏では、モーツァルト先輩にも敬意を表したつもりなんだが。
  おどけたり、ふざけたりが大好きな人だったからね。
A:あなたも好きでしょ、本当はネ。
  その後はもう、とってもあなたらしい曲ね。明るくて、勢いがあって。
  でも、29変奏からまた短調になるのは、なぜ?
  31変奏は・・・もう、涙が出てしまうわ。
L:いろんなことを思いながら書いてきたんだ。トーニィ、君との出逢いも、別れもね。
A:あぁ、あの時は私も苦しかったわ、胸が張り裂けそうだった。
L:判っているよ。君のことを忘れたことは無かった。
  別れてからも、君を愛していることは変わらなかったんだ。
  私もそれまでいくつか恋をしたけれど、みな終りがあった。
  でも、君への想いは終らなかったんだ。君も私を愛してくれていると信じていた。
A:ええ、ルートヴィヒ、私もそう信じていたわ。
  あなたがたった一人で耐えていると思って、私も頑張れたの。
L:そうだったんだね。あの頃を思うとハ短調でしか書けないように思ったのだが・・・。
  しかし不思議なことに、寂しさや哀しさは感じても、
  怒りや恨みという感情は湧かないんだ。
  昔の私なら、天を恨み、人に怒り、自分に苛立って、
  力づくで変えてやろうと思っていたのに。
  何だか深く深く水の中に沈んでいくような感じで、初めは冷たいし寒い。心が、だよ。
  しかし次第に温かさを感じてきて、暗いはずの水の底がほの明るく、
  安らかにさえなってきたんだ。
  そして私が君を愛しているから、幸福なのだと思えるようになった。
  君に愛されていると信じられるから、歓びなのだと思うようになった。
  たとえ逢えなくてもいい、いつか逢えるのだから、と。
  そう思った時、光を浴びたような感じがしたんだ。
  そのことを君に伝えたくて、これを書いた。
  アントーニエ、私のすべての想いを込めて、この曲を君に捧げようと思ってね。
A:ありがとう。どんなに嬉しかったことでしょう!
  信じてはいても、やっぱり私も寂しかったもの。
  あなたのお噂を聞くたびに、嬉しい気持ちと哀しい想いでどうしようもなかったの。
  もう、とても遠い人という気がして。あの日々は夢だったのかしら、と思ったりして。
L:夢ではなくて、永遠に続くのだということを伝えたかった。君は不滅の恋人だと。
  それで変ホ長調のフーガと、最後の曲を書いたんだ。
A:なんて愛らしいメロディー!
  このメヌエットを聴いて、あなたの笑顔が目に浮かんだわ。
  私を呼ぶ声を聴いたような気がして。差し出して下さる手の温もりも・・・。
  胸一杯に幸せが沁みとおるような気がしたわ。
  ・・・本当に素敵な曲。あらためてお礼を申しますわ、ルートヴィヒ。
  一つ一つ色も光も違う33の美しい珠。貴い宝石を連ねたネックレスのようね。
  こんな素敵な贈り物をいただいたのは世界中で私だけ。
  どんな王妃さまより、いえ、女神さまより幸せだわ。
L:当然だよ。君は私のミューズなのだから。
A:まあ、ルートヴィヒったら。
  でも、私もあなたのお仕事に少しでも役立ったのなら嬉しいわ。
L:少しだなんて! いいかい、9つ目の交響曲を知っているね。
A:ええ、勿論よ。シラーの詩を合唱にした、素晴らしい曲ね。
  「喜びよ、美しい神の火花、天の娘・・・」
L:そう。若い時に読んで感動したんだ。いつか音楽を付けたいと思っていた。
  でも、なかなか出来なくてね。
  リートという形式ではあの内容の大きさを表現しきれないんだ。
  それで交響曲の中でなら活かせるのではないかと考えた。
  だが、あの中に「優しい女の愛を勝ち得たものは・・・」というところがある。
  そこが私には書けなかったんだ。
A:まあ、あなたを愛している女の方は沢山いらしたでしょうに。
L:作曲家ベートーヴェンをね。そうじゃなくて・・・。
  一人の男として、女性の心からの愛が欲しかった。
  この曲を献呈して、君がとても喜んでくれたと聞いた。
  そうしたら、あの個所も自信を持って書けたんだ。
A:そうだったの。ずっと前から私はあなたを愛していたのに。
  ・・・それにしても、今のは素晴らしい演奏ね、ポリーニさんというピアニスト。
  こんなに心のこもった演奏、はじめて聴いたわ。
L:ああ、まったく。充実した見事な演奏だった。
  技巧的に上手いばかりじゃない、私の意図したこともよく理解して、充分に表現している。
  良い演奏を聴かせてもらったよ。
  彼は心で音楽を捉えているんだね。そして心からの音楽を奏でている。
  だからこの天上の世界にまで聴こえて来るんだ。
  君にあらためてお礼を言われたのだから、私もポリーニ君に礼を言わなければならないね。
A:あら、あなたの曲が素晴らしいからよ。ポリーニさんも感動しているわ、ほら、ネ。
  でも、私はやっぱり言いたいわ、聴こえるかしら?「ポリーニさん、ありがとう!」
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