ポリーニは語る(6)
〜『DIE ZEIT』Interview 〜

Mozart
"Ich glaube, man kommt ihm mit zunehmendem Alter naeher"
年齢とともに、よりモーツァルトに親しむようになると思います

モーツァルトを演奏できるのには、何が必要だろうか?
彼はどんなに革命的だったのか?
そしてヒストリカルな演奏をすることがどれだけ重要か?
イタリアのピアニスト、マウリツィオ・ポリーニに尋ねる。

《ポリーニさん、モーツァルト・イヤーにあなたはモーツァルトを演奏なさいます。他のピアニストなら特に変ったことではありませんが、あなたの場合は全く別です。なにしろあなたのプログラムにモーツァルトが現れることはめったに無いのですから。それは何故ですか?》

口で言うのは難しいですね。あるいはあなたはウィルヘルム・ケンプの言葉を思い起こすかもしれません。
「モーツァルトのソナタはアマチュアには易し過ぎ、プロの音楽家には難し過ぎる」
おそらくそれが理由です。私は随分モーツァルトを演奏しましたが、ソナタは多くはなかった、正にその通りです。

《その理由から、モーツァルトには一種の控え目な対し方をされているのですか?》

いや、それはナンセンスです。私は、例えば、スカルラッティをまだ弾いたことがないのです、本当に素晴らしい作曲家であるのに。また、とても興味を惹かれているムツィオ・クレメンティも、弾いていません。
人は全てを弾くことは、出来ないのですよ。

《若い頃は、今よりもっとモーツァルトの音楽に親しんでいらっしゃいましたか?》

私は思うのです、人は年齢を重ねるほど、ますますモーツァルトに親しむようになると。多分それは、十分成長した音楽家であってはじめて、モーツァルトの音楽の緻密さを正しく認めることが出来るからでしょう。私はいつだってモーツァルトが好きでしたが、おそらく今、その愛は更に大きくなっています。
ベートーヴェンは私達に、大きく強い仕草で語りかけます。モーツァルトはニュアンスをもって語るのです。しっかりと耳を傾ける人は誰でも、彼が全てを表現する能力があることに気づくでしょう。彼のオペラには、器楽曲作品も同様ですが、限りなく多くの、発見すべき隠された深遠なるものが存在します。経験を重ねるほど、ますますそこから多くのものを知り得るようになるのです。

《好んで用いられるステロタイプの観念ではありますが、モーツァルトを上手く演奏するには、一種の子供らしい無頓着さが必要だ、といわれますね。》

フレッシュさは必要です、その通りです。しかし、音楽から表れてくるのは、もちろん直接的な単純さではなく、第二の水準の単純さなのです。
モーツァルトは、測りがたいほど天賦の才のある音楽家であるばかりでなく、また非常に成熟した人間でした。それは音楽と並んで、彼の手紙の中にも学び取れます。音楽の質の高さは、単に彼の天才的な音楽の独創力からだけではなく、彼が作品を生み出すその覚めた見方(注意深さ)、明晰な意識からも生じるのです。
それゆえ彼のオペラの中の人物もまた、とても個性を明らかに造形されています。それは生きている人物であり、他の誰とも同じではないのです。
同様のことが器楽作品についても当てはまります。ブルーノ・ワルターとのプローべを思い起こします。彼は2つ目の小節ごとに異なる性格を求めました。そして彼は正しかった、それらはそこに現に在りました! 
モーツァルトを演奏しようとする時に、それがモーツァルトをとても難しくするのです。関わらねばならない沢山の領域(水準)があるのです。

《あなたはウィーンで“Mozart Perspektiven”という名のフェスティヴァルを行なわれますが、そこでは彼の作品が現代作品と結び合わされています。シェーンベルク、ウェーベルン、シュトックハウゼン、ノーノと。あなたにとって、これらの作曲家とモーツァルトの間には、明らかな関係があるのですか?》

そもそも音楽のイデーであるもの、その中心にモーツァルトの芸術が存在するのです。
それぞれの作曲家は何らかの仕方で彼との繋がりを持っています。その点は全く変りありません。
ラヴェルまたはショパンを考えてください。或いはシェーンベルクは、その分析の中でモーツァルトにおける変則性について言及しています、拍節の時代分けの中か何かです。リズム的な構造はシンプルに見える、しかしそうではありません。べートーヴェンはこの点はるかに規則的なのです。

《ピエール・ブーレーズをモーツァルトと結びつけるものは何ですか?》

彼らはプログラムの前後関係では相並んでいます。でも、直接的に関連があるということではありません。
一夜の内に、我々の時代の音楽とともにモーツァルトを聴くことは、とても爽快な経験だと思います。
私はこのような強いコントラストから来る力のあることを信じます。そこに何かが開かれるのです。
例えば私の演奏会シリーズの第二夜はモーツァルトの室内楽とルイジ・ノーノの「森は・・・」を組み合わせます。並外れてドラマティックな政治的アンガージュマンの作品です。ノーノが1966年にヴェトナム戦争に反対して作曲したのです。

《モーツァルトもまた革命的でしたか?》

モーツァルトの音楽から何かを理解する人は誰でも、彼の中に進歩的な芸術家を認めるでしょう。弦楽四重奏曲「不協和音」の第1楽章をご覧なさい、彼がここで敢えて行なったことは、本当に過激です。
ベートーヴェンが次いで革命的な仕草を非常に強く明らかに示したので、おそらく我々はモーツァルトに革命家の姿を見はしません。モーツァルトにあっては革命的なものはベートーヴェンの場合ほど明らかではありません、けれども深さでは劣らないのです。

《あなたは数少ないモーツァルトの録音で、指揮者カール・ベームと共に演奏しました。それはもうずっと前のことになりますが、演奏スタイルは、何よりもヒストリカルな演奏の実行が広まることで、大きく変化しました。この発展を歓迎なさいますか?》

私はカール・ベームをとても尊敬しています。彼は深遠な感情のある音楽家でした。それは比類ないものです。
あなたが話されたモーツァルト演奏の発展については、そこに新しい経験の地平が生じたことは確かにあり得る、と言わなければなりません。しかし、全てが実際に大きな意義があるとは、私にはどうも思えません。
私にとってはより重要なものがあります。例えば、我々の時代の音楽への確かな通路を、聴衆がついには見出すこと。過去の作曲家達がいかに素晴らしかったとしても、今日、我々が20世紀後半の音楽を今なお極めて僅かしか演奏しないのは、21世紀の音楽を全く沈黙させているのは、やはり不合理なことでしょう。

Interviewer : Claus Spahn
DIE ZEIT, 05.01.2006

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