ポリーニは語る(4)
〜『Corriere della Sera』Interview 〜

La musica secondo... Maurizio Pollini
モーツァルトについて

Pollini: "A me interessa che la musica di Mozart sia innanzitutto viva"

《マエストロ・ポリーニ、27曲のピアノ協奏曲は、モーツァルトの多くの器楽曲をよく代表する部分と見なされています。あなたから見れば、これは何故でしょう?》

実のところ、モーツァルトは、取り組んだすべてのジャンルで、並外れて高い頂点に到達したのです。例えば、室内楽を、また偉大な交響曲のことを、思い起こしましょう。
しかしながら、器楽曲の範囲内に留まれば、協奏曲のジャンルの優位性を言うのは正しいでしょう。なぜならモーツァルトは、本当にそれらの多くを、生涯の最後の数年、その円熟期に、作曲したのですから。交響曲よりさらに多くを書いたのです。(交響曲は)かなり多くが前の時期に遡るのです。

《評論の歴史ではこうした優位性は、結局のところ3つの方法で認められています。
演劇の要素を取り入れた巧みさ、ジャンルの形式に内在する自由さ、そこに含まれた表現の多様性。これらの論のどれが一番適切だと、あなたは思われますか?》

協奏曲を一つ一つ辿っていってみると、確かに演劇的作品との多くの類似が見出せます。でも私の考えでは、他のモーツァルトのどの作品もそうであるように、比類ない、真似のできないものをそこに生んでいるのは、表現の豊かさなのです。
演劇作品には人間の、考え得る全てのキャラクターが描写されますが、協奏曲の中にも、こうした表情に富んだ色彩の多様性を探し当てることができます。
ブルーノ・ワルターは4小節ごとに異なるキャラクターを見出しました、確かに彼の演奏では、単調さという危険には決して陥っていません。それ(単調さ、画一性)がモーツァルトの演奏には最悪の敵なのです。

《非常に簡潔(素朴)で明瞭な形式の中に、テーマととても深い感情がある:時々モーツァルトの音楽は初歩的とさえ思えます、ある時は神々しく、またある時はひどくドラマティックなその調子を、子供でさえ感知できるほどに。よく考えさせ、混乱させるようなこの真実は、ポリーニさんのような思索的な演奏家には、どんな反応をもたらすのでしょうか。》

本当は、見かけの簡潔さなのです。というのも、そこには、見かけの向こうに第二の段階の簡潔さがある、二重の奥底なのです:表面のレベルと深いレベルとの。

《モーツァルトが父親に宛てた有名な手紙が思い浮かびます。
「協奏曲は、とても難しいのととても易しいのの、真中の道にあります。・・・玄人だけが満足を得ることができ、でも、そうでない人も、なぜか知らず大喜びするような方法で」》

創作そのものが直接的なレベルと深いレベルを示しているのだから、演奏家はみな、このダイナミクスと同じ道を走るべきでしょう。
私が“第二段階の簡潔さ”と定義したものを表現しようと努める中で、絶えず大げさに描写するという危険が犯されるかもしれません。しかし、この領域、つまり各々の作品を特徴づける真実に近づく領域においては、私は不足という誤りよりは、過剰の誤りのほうを好みます。より多いアクセントのほうが、少ないそれよりも良いのです。キャラクターの単調さは敵です。
音楽が時代的に隔たっているほど、個性の無いキャラクターへと消えていくように思われがちです、が、反対であるべきでしょう。間隔を置いて見渡すことが、ニュアンスをつかむ妨げになってはいけない、いやむしろ、豊かになるようにすべきでしょう。
私にとって、モーツァルトの音楽は、まず最初に生き生きとしていることが、興味深いのです。

《ピアニストのことを話すと、演奏者はモーツァルトの完璧な音(or演奏)を明確にするために、どんな探求をせねばならないでしょうか。》

モーツァルトの完璧な音(or演奏)は全てのピアニストの目指す理想です。
私にとってはモーツァルトの書法の魅力は、とりわけカンタービレの表現性にあります。それは人間の声を思わせます。パブロ・カザルスの言った逆説、ショパンをモーツァルトのように、モーツァルトをショパンのように演奏しなければならない、という意見に賛成です。
勿論、多くの別のものがモーツァルトの表現法にはあります:対位法だけでも一例になるでしょう。
一方では、モーツァルトは全く異なった要素を巧みに用いて、並びない技法によってそれらを共存させるのに成功しています。しかもそれを十分に自覚しているのです。この問題では、ある有名な伝記作家の言った意見に、モーツァルトは自分の為したことを完全には意識していなかっただろう、神の恩寵に触れていたのだから、というのがありますが、私はその意見は嫌いです。あらゆる時代で最も偉大な劇作家の一人が、自分の芸術を全面的に知悉しコントロールしていなかったなどと、どうして考えられますか?

《[・・・] オーストリアの指揮者(カール・ベーム)が亡くなって20年になりますが、どんなことを思い出されますか。》

あの頃ベームのモーツァルトの演奏に夢中でした、レコードやザルツブルクのライブで聴いていたのです。それで、一緒にモーツァルトのレコードを作ることをお願いしました。こうしてこの共演が生まれ、ベートーヴェンの協奏曲とブラームスの第1番へと続きました。私達が表していた異なった世界が出会って、予想をはるかに越えた、稀有な音楽的な協調が創り出されたのです。

《彼はモーツァルトの演奏史上にやはり大きな足跡を残しました。その足跡は今も生きているでしょうか》

以前と同様、今もです。そしてモーツァルトの場合だけでなく、ベームは注目に値する演奏家であり続けています。彼は音楽の心に達しようと努めたのです。だから演奏の諸様式(or流行)を超えて、彼の演奏はこれからもずっと価値を持つでしょう、(諸様式は)反対に、はかないものなのです。

Corriere della sera/2001

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