ポリーニは語る(7)
〜Intervista di Matematica〜

数学者との対話
Musica e Matematica come due facce di una stessa medaglia?

“音楽と数学は一つのメダルの両面”(ピタゴラス)…だろうか?

マウリツィオ・ポリーニは現存の最も偉大なピアニストの一人と見なされている。1960年、わずか18歳でワルシャワのショパン・コンクールに優勝して以来、ベートーヴェンやショパンといった古典から、ブーレーズ、シュトックハウゼンのような現代作品まで、忘れがたい演奏で彼はその名声を築いてきた。

音楽に対する彼の限りなく大きな関心は、20世紀の作曲家の音楽に一貫して開かれているレパートリーの演奏ばかりでなく、またオーケストラの指揮や芸術的運営(とりわけ、全ての音楽の歴史とあらゆるタイプの編成にまで広がる“プロジェット・ポリーニ”の数々の演奏会)に於いても示されている。

ポリーニの音楽への関心は、政治的参加と激しい知的欲求とも結びついている。前者はジェノヴァの(ストライキで)占拠された工場に於ける演奏会から、レッジョ・エミーリアに近い小さな村での「演奏と分析」までをもたらした。
後者は自然科学の教養にまで広がっているが、そのことから私達は彼と話しを始めたのだった。ある演奏会の折のことである。

《あなたが物理学を学んだというのは本当ですか?》

それは一種の伝説ですよ、徹底的に見直されなくては。実際には、ワルシャワのコンクールの後に物理学に入学した、でも、それだけのことなのです。何冊か本を買いました、でも試験さえ無かったのです!

《それにしても、なぜ、物理学を?》

前から何となく興味があったのです。高校を出てから、微積分をなにも知らないことや、3世紀遅れた存在であることに、ある恥ずかしさを感じていました。それは本当に苛立たしいことです。でも当時は本当に何もしなかったのです。

《それで?》

それからは、数学を全く知らない人が多分そうするように、素人向けの入門書を読みながら、科学的なテーマに関心を抱き続けました。

《どんな本でしたか?》

例えばアインシュタインの"L'Esposizione divulgativa(一般向き解説)"を、相対性理論の初歩的知識を得るために。勿論これ(相対性理論)は途方もなく興味深い事実です。

《時間について語るのは、音楽を構成するものだからですか?》

それだけではありません。頭脳を使って、常識からはるかに遠ざかって、真実をつかむことができるのは、格別に魅力あることです。それに私には、アインシュタインを文化人として賞賛する気持ちが強くありました、今もそうです。平和主義と彼の語った勇敢で力強いことのために、です。例えば、1929年に彼は書いています。
 “我々はパレスチナ問題を如何に解決するかによって裁かれるだろう。
 そして、もしそれが出来なかったなら、我々はそこに生じる全ての悪しきことを当然受けるべきだろう”
並外れて、預言者のようですよね?

《ラッセルは、読んだことがありますか?》

ええ、勿論。彼は私が最も感嘆する人物の一人です、あまり顧みられていないように思えますが。今日『数学原理』は、どのように見なされているのですか?

《ゲーデル以後は、ただ美しい遺跡となっています。》

ああ、こうしてゲーデルはすべて一掃してしまったのですね、もし同一なら証明不可能である、とかいう彼の定理で!

《それもご存知なんですね?》

ナーゲルとニューマンの『ゲーデルの論証』という一般向けの本で読みました。ほんの少ししか理解できませんでしたが。

《こうして見ると、あなたの関心は本物ですね。》

ええ、でもディレッタントですよ。

《それでは、音楽と数学を一つのメダルの二つの面と見なす、というピタゴラスの考えをどう思いますか?》

音楽のアポロ的要素とディオニュソス的要素の間に、非常に強い対立性を見ることに、私は愕然とします。後者は数学とはとてもかけ離れたものと思われるでしょう。それは全く非合理的な仕方での、人間の無意識への交信に関わります。音楽の力が存在するのはそこなのです。プラトンもその『国家』において、憎らしげにではあっても、それを認めていました。楽観主義へと導かないがゆえに、若者に否定的な影響を与えるかもしれない音楽の旋法を排除したいと思った時です。恐ろしいことです、でも、音楽の並外れた伝達力を彼が認識したことを表しています。

《では、アポロ的なものは?》

勿論、存在しますし、数学と関連しています。けれども、勿論、音楽の真実の姿はとても神秘的で、とても複雑なのです。

《2つの精神は、音楽の潮流と少し関係があるのではないですか?例えば、アポロ的なものはバロックや12音音楽と、ディオニュソス的なものはロマン主義と?》

そのような把握、ジャンルの断定を、私はどうも受け入れられないのです。例えば、数年前に私はバッハのカンタータを勉強しました、この広大な領域をもっとよく知りたかったのです。そしてなにより印象的だったのは、あるカンタータと他のそれとの間の表現の雰囲気が途方もなく異なっていることでした。それはテキストの言葉を出来る限り伝えようという、まさにバッハの意志から産み出されているのです。これは合理性に関するのと同じくらい、いや、むしろ更に多く音楽の表現する力に関わっているのです。カンタータの小品は、バッハによって、明らかにある特定の数的な形式を伴って着想されてもいるのですが、これらの事は完全に共存しているのです。

《あなたは的確にもカンタータを選びました。でも例えば、ゴールドベルク変奏曲やフーガの技法を選んでいたら?》

そこにもまた稀有な表現力の要素があります。表現力について語られない時期が、歴史の中ではあったかもしれませんが、いずれにしても、それは基本的な構成要素です。たしかに音楽は単に論理的ではないのです。

《現代の作品も同様でしょうか、例えばシェーンベルクの12音音楽は?》

シェーンベルクの(作曲の)諸時期の間に、余りに強い差異を想定したり、想像したりすべきではないでしょう。もし彼のポスト・ロマン派の作品がワグナーとかマーラーの音楽と同じように表現力のあるものなら、素晴らしい無調の(おそらく彼の最も天才的な)時期の全てが、非常に強い表現性を内包していて、それについてシェーンベルクは完全に自覚していたのです。勿論、12音技法の体系が強い論理性の要素を持っていることは、何の疑いもありません。

《時には、束縛ではありませんか?》

それは明らかに、未来への進路を開いた体系です。なぜなら、結局は、戦後の偉大な音楽家達は皆、12音技法の経験を経てきたのです。彼らにとっては、どうしても避けることのできない行程だったのです、たとえ後でそれを乗り越えたとしても。

《でも、音楽が聴衆のためよりも、作曲家のためのものになるという危険はありませんか?》

これらの音楽家に於いても、いわゆるディオニュソス的な、或いは感情的な要素は、とても強い基本的な意義を持っていると私は確信しています。もしこれがまだ十分に認識されていないのなら、それは残念ながら聴衆の好みに一種の古さがあるからでしょう。でも、先入観を乗り越えるために、それらの音楽を演奏しながら、理解されるように常に努めています。

《それは現代的なもの全てに特有な問題ではないのですか?》

それだけではありません! 例えばオケゲムのミサ曲"Messa delle prolazioni"を見てみましょう。二重のカノンで出来ていて、厳格な法則のもとに進んでいきます。それでもなお、音楽は想像されるより以上に表情豊かです。表現力は構造にかかわらず表れ出てくるのです。合理的で堅固な構造が表現力を妨げると考えるべきではありません。全く違います。音楽の奇跡はまさにここなのです。私達はこれらの要素を、常に対照的に、互いに相容れないもののように見ることに慣れています。でも音楽の現実においては、そうはなりません。これは、まさに先入観なのです。

《私達の多くがそうであるように、音楽的に無知であっても、聴衆はこの種の音楽を楽しむことができるとお考えですか?》

何度も接することで、きっとそうできるでしょう。でも、バッハから始めて歴史順にたどるという学校でやるような方法ではなくて。このやり方では決してたどり着かないですから。おそらくより若い人達はバルトークの“ミクロコスモス”から始めて、現代音楽と過去の音楽の経験を混ぜ合わせていくのがよいでしょう。

《あなたがご自分の演奏会でやっているのがそれだと思われます。》

そのように為されると良いと、思っているのです。実際には、正直に言えば、私のレパートリーの中で現代音楽はかなり控えめな部分です。けれども、私自身を育て形づくるために、音楽的にも知的な面でも、それはとても重要なものであったし、音楽的体験での全く稀有な瞬間をもたらしてくれました。芸術を構成する要素全ての完璧さと表現の豊かさの意味に於いてであり、単に抽象性とか全くの合理性の意味に於いてではなかったのです。

《ピアノを演奏するほかに、あなたはオーケストラの指揮もしました。一体どうして、活動を続けるある時点で、ピアニストはこの必要性を感じるのでしょう? 多分、手段の限界を感じるのでしょうか?》

交響曲の巨大なレパートリーは魅力です。ピアニストはショパンをはじめとして自由に使えるレパートリーに、不平を言うべきではないでしょう。でも、残念なことに頻繁に接することのできない作曲家も存在するのです、ワグナーやマーラーのように。

《けれども、あなたはロッシーニを指揮しました。》

彼のオペラ・セリアに興味が湧いたからです。とても謎めいていて風変わりで、テキストと独特の関係を持ち、どんな約束事をも超越しているのです。時々、音楽はテキストの言うことと反対のことを語るかのようです。たとえ全く慣例どおりではない彼の方法を用いていても、ロッシーニのオペラにはある独特なドラマ性があり、それを研究するのが私には面白かったのです。

《他にはどんなものを指揮しましたか?》

ある機会に、ピアノから合図を送りながら、指揮者なしでモーツァルトの協奏曲を演奏したことは、楽しい経験でした。

《オーケストラの指揮者が居るのと居ないのとでは、ピアニストにとって、演奏するのにどんな違いがあるのですか?》

指揮者が居ない場合、率いるのがソリストなので、作品へのより統一的な考え方があります。例えば、モーツァルトの協奏曲ではピアノと管楽器が絶えず対話するのですが、総じてとても親密な関係が生まれます。直接の対話であり、互いに目を見て、応え合うのです。一方指揮者が居る場合は、管楽器と(それに全般にオーケストラと)の関係は明らかにその人物によって媒介されるものになります。

《モーツァルトでだけ、そうしたのですか?》

ベートーヴェンのいくつかの作品もです、例えば5番の協奏曲。この場合は、作曲家が書いた時には、ピアニストと指揮者で演奏されたのでしたが。一方モーツァルトでは、彼がそうしていたのを見れば、この方法で演奏するのはある正統性があると思います。これは実際によく行われていたことから生まれたのです。

《あなたはプロジェット・ポリーニで芸術監督もなさっています。これはどうして始まったのですか?》

一度、1994年にザルツブルクで、ちょっとした演奏会シリーズを考えるよう依頼されました。プログラムはピアノだけでなく他の演奏家を含むもので、合唱、独唱者、器楽奏者、それも普通の分け方(ピアノ、四重奏、オーケストラ)を除いて、音楽活動を実践するために存在するあらゆるタイプの編成での器楽奏者達から成るものでした。その内の一夕で、観念の親近性についての音楽的根拠のために、同じ作曲家の場合でも異なった編成の作品を一つにまとめなければなりませんでした。その時私はこれらのプログラムを思いつきました。そこで常に重要な役割を担ったのは、我々が現代の音楽と呼んでいるものでした、今はもう、そう呼びませんが。

《古い音楽については?》

それらも、私にとっては、ピリオド音楽と作曲家を研究する良い機会でした。音楽については実際わずかに知っているだけだったし、作曲家については深く検討してみて、本当に素晴らしく偉大に思われました。例えばマショー、オケゲム、デ・プレ・・・それに勿論イタリア人、パレストリーナからモンテヴェルディまで。

《プロジェットはどのように続いたのですか?》

私達はほかのシリーズをニューヨーク、東京、ローマそしてウィーンで行いました。ニューヨークではプログラムはとても拡大し、20世紀後半の作品に充てられました。それらのうちいくつか、ブーレーズやシュトックハウゼンのような作品は、演奏会の普通のレパートリーに入れるべきでしょう。聴衆の成熟をもたらし、今日の音楽の現実を受け入れられるようにするために、安定的に。

《ブーレーズをよくご存知ですか?》

ええ、彼とはオーケストラの指揮者として、世界のいろいろな都市でかなり多くの共演をしました。ずば抜けた人物です。全く信じがたいことに、まさに今日の最も重要な作曲家の一人であり、同時にオーケストラ指揮者として、また評論家として並外れた才能を持っているのです。言ってみれば、万能です。

《私は彼とジョン・ケージについて話しましたが、あまり気に入っていませんでした。あなたは彼についてどう思いますか?》

ケージは、その表現に限って言えば、歴史的な存在として重要だと思います。彼の音楽はかなり興味深いのですが、正直に言うと、20世紀後半の歴史の中の先輩の巨匠たちに比肩しうるとは思えません。

《では、シュトックハウゼンは?》

彼は偉人の一人です、絶対に。

《彼の音楽が聴衆にとって享受できるものだと思いますか?》

勿論、可能だと思います。例えば、彼のピアノ曲にはこの楽器のために巧みに書かれた独自性がありますし、ピアノ上で幻想的に鳴り響きます。シュトックハウゼンの音色の創出とピアノの扱い方は天才的で並外れたものです。あえて言えば、過去のある作曲家達以上に。勿論、彼らもそれぞれ偉大なのですが。

《ボルヘスは、文学において現代作品は古典を再創造するという考えを持っていました。音楽でもそうなりますか? 例えば現代作品を演奏したことから、あなたが古典を演奏する仕方に引き継がれたものがありましたか?》

それはとても答えにくい質問の一つです。我々に近い作曲家を経験することは、一人の音楽家にとって、人格形成に深く関わり、本質的なことだと思います。古典を演奏する仕方に直接の影響があるかどうか、言うのは難しいと思われます。おそらくベートーヴェンの作品にあるテンション、例えば不協和音の存在から来るものは、現代音楽を知る者にはより良くイメージできるでしょう。けれども、こうだ、とは言えません。フルトヴェングラーのように、非常に偉大な演奏家達がいますが、彼らはベートーヴェン的な和声のテンションに最も敏感であり、しかも現代音楽とは頻繁に触れ合うことはなかったのです。

《評論家のある人々はこの音楽を否定的に理解し、感情をあまり表わさせないとして非難するようです。》

もちろん、私は同意しません。

《聴衆でさえ(同意しないと)、言うでしょうね。》

Interviewer:Piergiorgio Odifreddi
トリノ大学、コーネル大学で数学論理学を教える
日刊紙“La Repubblica”に寄稿
1998年ガリレオ賞受賞(イタリア数学協会からその普及活動に対して)

MATEMATICA

Menuへ戻る